心配は愛だったり虐待だったり
ふしぎなもので、以前、「よかったね」という言葉が、「さようなら」に聞こえるという話を書きましたが(リンクがはれなくてすみません)、つまり、「よかったね。だいじょうぶだね。もう一人でできるね。さようなら」と言っているように聞こえるという話ですが、これも、誰に、どのシチュエーションで言われるかによって、違って聞こえるのです。「よかったね」と言われても、決して「さようなら」に聞こえない場合もあります。
それで言うと、「心配」というものも、ときと場合によって、「愛」だったり「虐待」だったりします。
「気にかけてくれる人がいる」という意味では、「心配」は「愛」です。「心配していますよ」というのが、愛情表現だったりします。そういう心配は、ありがたい心配です。
逆に、どういう心配が、「虐待」か。それは、幼いころの私の受けたような「心配」です。つまり、私が「整理整頓ができない」、「忘れ物、なくし物をする」「電気のつけっ放し、物の出しっぱなしをする」といった、「だらしのないこと」で、その子(私)の将来を「心配」した私の両親は、ひたすら私を、愛なく、情けなく、容赦なく叱責しました。それはもう、大人になって深刻な精神病を発病するほどの叱責でした。あれは虐待でした。
なにが違うのだろう。「心配」は、「愛」だったり「虐待」だったりする。
なにが違うのだろう!