私が「余計なこと」を書く理由
8年くらい前、教員だったころ、教員免許更新講習をオンラインで受けていて、講師の「記憶心理学」の先生が言っていたことです。人間の脳は、情報が付加されていたほうが覚えやすいし思い出しやすい。しかしこのことを知っている学生は少ないと。
人間の脳は「バケツに水を入れている」状態ではないのですね。「余計な情報を付加したほうがかえって入る」のですから。
私の記事でよく読まれているもののひとつで、おととし(2020年)の8月に書いた「日本でキリスト教が衰退している本当の理由」というものがあります。(以下にリンクをはりますが、律儀にお読みになる必要はございませんよ。)
これのサムネが、「3個のなし」の写真なのです。この「余計な情報」が加わったことで、私のこの記事は「思い出しやすく」なっています。「日本でキリスト教が衰退している本当の理由?ああ、あの『なし』の記事ね」という感じです。
「その日は雨が降っていた」という「余計な情報」が付加されることで、その日の出来事がより鮮明に思い出される、という経験はございませんでしょうか。「ジンチョウゲの花のにおいで思い出す幼少の出来事がある」とか。
弁護士の伊藤真さんは、たくさんの柄のサスペンダーを持っていて、とっかえひっかえしています。それは伊藤さんの指導を受けて司法試験を受ける学生さんが「伊藤先生があの派手な柄のサスペンダーをしていたとき、この民法の話をしていたなあ」と思い出せるようにするためなのです(伊藤さんの著書で読みました。その本が手元にないため、記憶による引用で申し訳ございません)。伊藤さんがその記憶心理学の研究成果を知っていてそのことをしているとは思えませんが、伊藤さんはこのことを経験的に知っているのです。そもそも「伊藤真さん?ああ、あのサスペンダーおじさんね」と思い出してもらえることにもなります。
私のクリスチャンプレスの連載「発達障害クリスチャンのつぶやき」には、必ず「ブタが真珠のネックレスをしている絵」が私の「肖像」として出て来ます。「発達障害」と「ブタ」はなんの関係もありませんが、読者のかたには「発達障害クリスチャン?あのブタの人ね」と思い出してもらえるように工夫がされているということだろうと思います。
私はときどきこの現象を、文章を書くときに応用しています。たとえばさっきのように私が「その本は手元にない」と書きたいとき、あえて意味もなく「その本は二度と読むことはあるまいと思って古本屋に売ってしまったので手元にない」と、その本が手元にない理由を書いたりします。それはその後の話の展開に必要のない情報ですが、その情報が付加されていることによって、かえって文章が「読みやすく」なることがあるのです。
とにかく人間の脳はバケツに水を入れるようにできているのではないのです。情報が付加されているほうが覚えやすいし思い出しやすいようにできているのです。私がこの話を聞いたのは8年くらい前ですが、これは日常的に生かせる知恵だと思いませんか?
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