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誰をも傷つけずに

ダウンタウンの松本人志さんがかつて著書に書いていたことがあります。(いつも記憶に頼った引用ですみません。)誰をも傷つけずに人を笑わせることはできない、と。これは、最近読んだあるギャグ漫画の作者も書いていたことです。人を笑わせるのが仕事の人はしばしば考えることなのでしょう。私自身、お笑いで傷ついたことがあります。ナイツの漫才で、「ヤホーで調べました。スピルバーグという映画監督をご存知ですか」というものがあり、彼らは「E.T.」というところで「E.D.」と言ったのです。これを覚えているのは、やはりちょっと傷ついたからでしょう。(私は発達障害の二次障害以来のEDです。)ナイツを恨んでいるわけではありません。松本さんの言われる通り、誰をも傷つけずにお笑いというのは成立しないのでしょう。

これはお笑いにとどまるものではありません。私は中学か高校のころ、「本を出す人は罪深いなあ」と思っていました。あのころはインターネットというものがありませんでしたが、ある本の著者にとってまったく知らない人が、たまたま本屋さんでその本を手に取り、読んで、どんな影響を受けるかわかりません。悪い影響かもしれません。恐ろしい罪深さではないでしょうか。あるいは、ずっとのち、私が中学の教員だったころの話です。仕事をしている人の話を聴こうということで、ある自動車メーカーの人の講演を聴きました。私はなんて罪深い職業かと思いました。そんなに環境破壊と地球温暖化に寄与する「自動車」というものを大量生産している会社に勤める人は、製造に限らず販売の人まで、どんな神経をしておられるのだろうか。繰り返しますが、これは自動車メーカーに限りません。私がしていた職業である中高の教員というものも、かなり「罪深い」職業でした。「自動車という『いいもの』を作っている」とか「生徒に勉強を教えている」とかいったプラスの面だけでなく、人間の活動は必ず負の面があると思います。

ある牧師さんは、礼拝で説教する前に「自分の説教を聴いて死にたくなる人が出ませんように」と祈ってから説教を始めるそうです。それを聞いたある人から「死にたくなって何が悪いか。人には『死にたいと思う権利』があるはず」と言われて「ごもっともです」という話になったみたいですが、これも、牧師というのはつい「自分はこれから神の言葉を語る。間違っても自分の話を聴いて死にたくなる人が出てはならない」と思っているからであると考えられます。私の知っているある人は、愛する人を天に送った直後に礼拝で「亡くなった人とはもう話せない。電話もつながらない」という説教を聴いて傷ついていました。それは説教の導入部分でしたが、そのときの牧師もまさか自分の説教でそのように傷ついている人がいるとは思わなかったでしょう。

私がこうして書いている記事も、どこで誰を傷つけているかわかりません。でも、それはしようがないです。私もいろいろな人の記事で傷ついてきました。お互い様です。人はプラスのことだけを相手に与えることはできないのです。人はみな罪人(つみびと)ですねえ。

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