私がバカにはバカにされる理由
最近、ようやくわかってきたことがあります。いや、前からわかっていたことなのですが、「これは逆も成り立つ」ということに気づいたのが最近なのです。「私は賢くない人のあいだに行けば行くほどバカにされる。私は賢い人のあいだに行けば行くほど尊敬される」という命題です。「小学校では徹底的にバカにされて叱られてきて、東大では急に友達がたくさんできた。数学者の道を断たれてやむを得ず中高の教員になったら、そこは三流の学校で、ひどくバカにされていじめられてきた」という人生46年の大まかな流れからも、だいだいわかりそうなものですが、それが、この1年半の休職で明らかになってきたのです。そして、「逆も成り立つ」とはどういうことかと言いますと「私をバカにしてくる人間は賢くない」という命題です。これに気が付いてから、「なるほど」と見えてくるものがたくさんありました。
その具体例はいちいち挙げないことにいたします。本日の私のテーマは、「なぜ私は賢くない人にはバカにされるのか」ということです。
私は、空気の読めない人間です。発達障害の障害特性です。物事は空気でなく論理で理解するタイプです。そのせいで、物事を理解するとき、全体を100としたとき、私が「わかった」というときは、100すべてが、ピカー!と光るようにわかったときのみを「わかった」というのであり、それ以外を「わかった」とは言いません。99わかっていても、1わかっていなかったら「わかりません」と言ってしまいます。人生の多くの局面でこの性質がどれほど不利益をもたらしているかわかりません。多くの人は40くらいわかれば「なんとなくわかった」と言って、あとの60は「空気を読んで」世の中をわたっているのです。ここから判明することは、私が「わかりません」というときは、世の多くの人には「この人は40もわかっていないのだな」と取られる、ということです。
それに加えて、私には、「わかっていても、知っていても、なぜかそれが口から出て来ない」という現象があります。つい最近の話をします。先週の日曜日のあるオンライン礼拝のあとのZoom交流会で、司会の若い牧師さんが、「聖書に出てくるドルカスという女性と友達になれそうだという人がいたんですよね。ぼくはドルカスについてよく知りませんでした。使徒言行録に出てくるのですね。腹ぺこさんはよくご存知ですね?」と私にふってきました。私は聖書を17回通読しています。使徒言行録の載っている新約聖書のみであれば33回通読しています。ドルカスについて知らないはずがありません。なのに私は「ドルカスは使徒言行録に出てくる女性ですね」としか言いませんでした。少なくとも私はその場で「ドルカスとはヤッファにいたタビタという名前の女性のことで、新共同訳では本文に『かもしか』と書いてあったが、それは聖書協会共同訳では注にまわった。そして聖書協会共同訳ではそもそも『かもしか』ではなく『ガゼル』である」くらいのことはスラスラと言えるのです。おそらくその牧師も私にそれを期待していたでしょう。しかし、なぜか私はそれができないんですよね。その場では別に恥をかいたり叱られたりしたわけではありませんが、万事がこの調子なので、人生でかなり損をしています。(恥をかいたり叱られたりも多数です。)
この正反対の人が、教員時代の同僚にいました。仮に「山本先生」としましょう。山本先生は同じ部活の顧問の仲間でもありました。山本先生が筆頭の顧問で、私は「下っ端」の顧問でした。彼は100のうち1知っていたらそれをひけらかす人です。そういう場面に何度も出会ってきました。「ひけらかす」は不正確な言いかたですね。「ひけらかす」とか「見せびらかす」とかいう言葉に込められた「必死な」ニュアンスはなく、いわば「余裕しゃくしゃくで」見せるのです。そして、1しか知っていないのに、あたかも100わかっているように周囲の同僚や生徒や保護者に見せて、「わあ山本先生すごい」と思わせるのが得意でした。山本先生はその能力で「教員」という仕事をうまくまわらせているのでした。山本先生にひたすらこき使われた私はそれをよく知っています。私がいっしょうけんめい部員との関係を築いて必死で得た情報をサッと持って行き、つぎの瞬間にはそれを保護者の前で「ひけらかす」(「ひけらかす」とは言わないんですよね。「じょうずに余裕しゃくしゃくのように見せる」)のなど日常茶飯事でした。彼から私は徹底的にバカにされていました。それは彼がバカである証拠であることが最近わかったわけですが、どうして彼からバカにされるのか。それは、彼が「1わかったら100わかっているかのように見せる」人間だからです。だから、私が「わかっていない」としたら、私の理解度は彼には「0.5」くらいに見えていたはずで、したがって私は極端なバカに見えるのです。山本先生はクリスチャンでもありますが、もしも彼にも先述の「ドルカスを知っていますか」とかいうような場面があれば、彼は知っている限りのドルカスに関する情報を口にしたことでしょう。(しかもそれが必死さを感じさせない。ドルカスについても他のことについても余裕をもって非常に博識であって、そのごく一部をチラッと見せているだけですよ、という感じに演出するのがうまい人でした。)だから私は彼みたいな人にはバカにされるのです。つまり、私が賢くない人のあいだに行くとバカにされるのも障害特性だということがわかってきました。
先日は、私が弱小の学生オーケストラの指揮者であったから指揮者が務まったのだ、という認識は誤りであり、私は賢い人のあいだに行くほど尊敬される傾向からして、都響やN響などの優秀なオーケストラの指揮者であれば逆にもっと尊敬された可能性がある、などという大それた恥ずかしいことを書いてしまいましたが、あのあと、もう少し別のことに気づきました。私はお客からはバカにされるだろう。なぜならお客はバカだから!私はバカにはバカにされるのだ!とすると、客受けのよくない指揮者はオケ事務局も呼ばないでしょうから、やはりN響の指揮者などというのはあり得なかった話かな、と思ったのでした。極端な話だと思われるでしょうが、じっさい私は皆さんの想像をはるかに上回る極端な人間なのです。そして、この文章を読んで「こいつバカだな」と思ったかたはバカなので、私はそういう人は相手にしません。だんだんわかってきました。私をバカにする人はバカなのだ!