「ゆだねる」も神様に甘えること

 以前、「お祈りは神様に甘えること」という記事を書きました。(リンクのはりかたがわからなくて、すみません。)

 2年ほど前、ノンクリスチャンの父と母の前で、(ほかに言ってくれる人がいないものですから、)いっしょうけんめい「ゆだねる」「ゆだねる」ということを言っていた時期があります。私が「ゆだねる」「ゆだねる」と言っているのに、しきりに反論していた父は(「そんな、なにもかもゆだねて、努力をしなくなってしまったら、人間はダメだ!」)、「天は自ら助くる者を助く」というのは、聖書の言葉ではないのか?と言ってきました。このことも最近、書きました。リンクがはれなくてすみません。もちろん、その言葉は聖書の言葉ではないのですが(天は自ら助くる者を助くんだったら、神様も隣人もいらないですよね。聖書の言葉であるはずがない)、じつは、土居健郎も、「天は自ら助くる者を助く」という言葉を、『「甘え」の構造』のなかで論じている。たしかにこの言葉、「甘え」の正反対みたいな言葉ですからね。

 ということは、「ゆだねる」ということも、「神への甘え」なのではないだろうか。(いま、私は、「甘え」という言葉を、いい意味で使っていますよ。)

 だれかが助けてくれなかったら、「ゆだねる」ということは、成立しない。

 神にゆだね、人にゆだね、出会いにゆだねる。それはまさに「甘え」であり、現代社会が忘れている大切なものなのだ。

 もちろん、神様はたいへん厳しいおかたです。こちらの思うようには、なかなか甘えさせてくれません。だから、「ゆだねる」って、すごく難しいことなんでしょうけど。

 ゆだねましょう。もっと甘えましょう。(私の父みたいに、)厳しいことを言う人はいるでしょうけど、助けてくれる人もいるはず。

 「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」byイエス。

 これこそ大切だと思って、しがみついているものを、手放す。手放すことは勇気のいることですけど、いざというときには、手放しましょう。
 
 助けてくれる人はいますよ!厳しいことを言う人はいますけどね!

 本日は以上です。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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