「宗教ではないもの」があやしい
最近、ある新興宗教の脱会者の動画を見ました。冷静に見ても、その宗教は人をランク付けしており、はっきり「あやしい宗教」でした。しかも、宗教の形をしていない。世の中の人は「宗教はあぶない」と思っておられるのかもしれませんが、これはたしかにあぶないです。こんなものを信じたら大変です。しかし、じつは「宗教ではないもの」があぶないのではないかと思わされました。
私の母は、それとはまた別の新宗教のシンパです。「これは宗教ではないんですって!」と言って「丸信じ」しています。人は「宗教ではない」という言葉に弱いのかもしれません。だいぶ前に見た別の動画で、キリスト教の紹介がありました。その人は「キリスト教は、いわゆる『宗教』ではありません」と言っていました。私は見る気を失いました。これはあやしい。キリスト教のいいところは、はっきり宗教だと言っているところにあるのではないかと思ったからです。いまでもそう思います。教員時代の同僚で「自分は現代科学しか信じないのですが」と言いつつ、生徒さんの外国みやげの「神様」の像を捨てられないでいる人がいました。「現代科学」自体が「宗教である」ことに気づいていないのでしょう。
冒頭の新興宗教の動画に戻りますが、いかに人は信じやすいかということの証拠でもあるように思いました。私も人をランク付けしています。人が人をランク付けしているのはよく見えるのですが、自分もやっているという自覚はなかなか持てないものです。その教祖さんも自覚していないかもしれない。自分で自分に洗脳されているのか、それとも無自覚でお金や地位に仕えているのか。そのようなカルト宗教から脱会することは容易ではありません。私自身は、宗教は最初からいいものに当たりましたが、逆に「両親の洗脳」が強烈で、これからの脱洗脳はたいへんです。いまだに両親の影響下にあります。母の言うことがすべてカルト宗教であることをはっきり認識するのに、どれだけの時間がかかったことでしょう。父の言うこともです。弟はまるまる洗脳されたままその子どもを洗脳しています。
「宗教があぶない」というのは、表面的なことに過ぎません。むしろ「宗教でないもの」があぶないのです。いかに世の中に「洗脳」があふれているかに気づくにつれ、「宗教でないもの」のあぶなさに警戒せねばならないと思うようになりました。子どもさんが大学生になる親御さんが「どうしたら子どもが宗教に入らないでしょうねえ」と言っていたことがありましたが、その質問を受けた牧師もちゃんと答えられていませんでした。「はっきり宗教」とわかるものならば警戒のしようもありますが、無自覚的な洗脳は対処しようがないからです。部活の大会にいっしょうけんめいになるのさえ、ある種の宗教と言えなくもないです。
「宗教はあぶない」という言いかたそのものがあぶないという警告でこの記事を終わりたいと思います。「宗教でないもの」があぶないのです。