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主は皆さんと共に。また司祭と共に。

 教会の礼拝で、最後に牧師が言う言葉があります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」(新約聖書コリントの信徒への手紙二13章13節)。よく祝祷(しゅくとう)と言いますが、ようするに集まっている皆さんを祝福している祈りです。これで礼拝はおしまいになります。あとは報告の時間です。この「あなたがた一同と共に」というところを「わたしたちと共に」というふうに変えて言う牧師さんも多いです。ある牧師さんに聞いたら「自分も祝福が欲しいから」とおっしゃっていました。別の牧師さんが、やはり「わたしたちと共に」と言っていたので、「それだと、『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり』が、『ほかの人には知らないけれど、少なくともわたしたちと共に』と言っているように聞こえるときがあります」と申し上げたところ、まもなくその牧師さんの祝祷は「すべてのいのちと共に」という言いかたに変わった、という経験もあります。それはともかく、もともとのパウロの言葉(聖書の言葉)は「あなたがた一同と共に」です。これは「自分以外の人は祝福できるけれど、自分で自分は祝福できない」ということを意味するのかもしれない、と思ったりもします。

 ある聖公会の礼拝に出て、「主は皆さんと共に」と牧師(司祭)が言うと、会衆が「また司祭と共に」と言う、という場面に出会いました。まず司祭が「主は皆さんと共に」と言って、自分以外の人を祝福する。そして、祝福された会衆は、その場で唯一、祝福されていない司祭をみんなで祝福する、というふうに見えました。これも「自分で自分は祝福できない」ということを意味するのかもしれません。

 こういう話は、何度か記事にしていますので、「またか」と思われたかもしれませんが、「自分で自分のことはできない」というのは、人間の本質のような気がしますので…。私は「校正が得意です」と言っています(これは障害特性です。発達障害を持っている人で、校正の得意な人はけっこういるのです)。ココナラでも校正をやっています。(リンクをはればいいのに、はらないです。「アムールトラ」という名前でやっています。どうぞお気軽にお問い合わせくださいね。) それを最近、ある人にメールで伝えようとしたときに、そのメールの最初に、その人のお名前を書いたのですが、なんと私はその人のお名前の字を間違えている!送信する前に気づいて直しましたが、これはひんぱんにやっていることで、人の誤植は見つけられるのですけど、自分ではやらかすのですよね。自分で自分は助けられないのです。

 ある牧師さんが言っていました。その人のお父さんも牧師だったそうです。その人は、子どものころは、牧師であるお父さんが、日曜に説教で言うことと、日常的にやっていることのあまりの食い違いが気になってしようがなかったそうです。しかし、大人になって、自分も牧師になって思うことは、そういう矛盾を抱えた姿こそが、真の信仰者の姿ではないか、ということだということでした。ここでこの人の言っている「矛盾を抱えた姿」というのが、人間の本質なのかもしれません。

 きょうはこれから、2年近く休んでいる職場に呼び出されています(どうやらこのnoteなどに気づいている職場の人はいないらしいです。少なくとも上層部は。もっとも私の書くことはすべてフィクションですけどね)。まもなく辞めさせられるので、その勧告であると考えられます。考えると緊張しますね。なにを言われるのだろう。向こうも緊張しているかもしれません。私から何を言われるか。お互いに「やましい」のです。しかし、そういうことの直前に、私はこういうことを書いています。それは、自分で自分を励ますことはできないのですが、こうして人を励ます文章(?)は書けるからです。誰かに話を聞いてもらえる、というのは大切ですね。ひとりに聞いてもらえるだけで気が済んだりします。私もこの2年近くで、たくさんの人に助けてもらいました。考えてみると具体的に解決した問題はほとんどないとしても、人に話を聞いてもらえるだけで、かなりメンタル面で助かります。こうしてnoteを見ているだけでも、「これ、ぐちに見えるけれど、じつは皆さん、自分の話を読んでほしいのだな」ということを感じたりします。

 ずいぶん、「祝福」の話からずれた気がしていますが、とにかく「だれかから励ましてもらわなければならない。自分で自分は助けられない」ということが言いたかった記事でした。

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