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日帰りベルリン—前編
西へ
朝7時のポズナンは肌寒く、9月らしい秋の陽気であった。それでいて日は高く昇りつつあり、輝かしい夏の香りも充分に感じられる、1年の中で最も優れた季節を迎えていた。
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いかにも増築に増築を重ねたといった風情のポズナン中央駅の西端は、駅構内の中でもひときわ前時代的な様相を呈している。有り体に言ってしまえばいかにも「東臭い」、そんなプラットホームに一本の列車が豪快に滑り込んできた。
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ベルリン・ワルシャワエクスプレス——ドイツとポーランドの首都を1日4往復結ぶ、昼行国際列車である。ポーランド国内はEIC(Express Inter City)扱い、ドイツ国内はEC(Euro City)扱いでそれぞれ運行される、客車列車では最優等種別だ。ベルリンを隔てていた壁が崩壊して東西の垣根が消失し、シェンゲン協定によって国境検査が消失した現在ではあまり国際列車という趣も感じられないが、ある意味ではれっきとした「自由」の賜物である。
この列車を全区間を乗りとおすと5時間半以上かかってしまうのだが、ポズナンからベルリンまでは2時間40分ほどで辿り着くことができる。小旅行にしては長いが、これくらいなら「ぼんやりしていればあっという間」の範疇だ。わざわざベルリンに宿を取らずとも、濃密な1日弾丸観光を楽しむことができるというわけである。いざ、越境の始まりだ。
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客車はポーランド国鉄(PKP)のものが使用され、内装も国内列車とさほど差異を感じられるものではなかった。始発駅のワルシャワ東駅を朝5時前に発っている割には車内も清々しく、いかにも一般的なポーランド都市間列車という様相である。
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しかし、特徴的なものが1つある。それが食堂車だ。
ポーランド国鉄の国内急行列車(IC ; Inter City)にも食堂車は連結されるのだが、基本的には古びた簡易的な椅子が使用されるものがほとんどだ。
しかしながらEIC(Express Inter City)という特急列車には、比較的ゆったりとした座席の食堂車が使用される。メニューそのものはICでも充分に豊富であるとはいえ、EICになるとさらに豊富になるという差別化も図られている。
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実際のところ、EICは国内列車でも運行されている種別であり、国内向けでも食堂車はゆったりとしたものが連結されている。しかしながら、本数や運行区間は非常に限られており、メリットがあまり感じられない程度に高額な値段設定になっているので基本的に乗る機会がない。というわけで、少なくとも私にとっては国際列車でないと乗ろうと思えないのが実情だ。
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まあ何にせよ、このベルリン・ワルシャワエクスプレスはれっきとした国際列車であることに変わりはない。何より快適な朝食を享受できることが一番であると、私は自分の所定の座席に寄ることもせずに食堂車へ直行した。
朝食メニューにもいろいろあるが、ひとまず朝のカフェインとして紅茶は確定である。暫し迷ったが、定番どころとしてスクランブルエッグの生トマト添えを頼むことにした。
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注文方式はいろいろある。これくらい空いている優等列車であれば、椅子に座っているとスタッフが聞きに来てくれることもあるが、荒々しい国内急行列車に慣れてしまえばカウンターで注文するのが一番早い。ひとまず紅茶だけカウンターで受け取り、料理の方は出来上がり次第、座席まで持ってきてもらうことにした。
しかし、朝の食堂車で飲む紅茶はやはり格別である。旧ソ連のように荘厳なカップホルダーが提供されることはないが、マグカップでも十分雰囲気がある。温かいカフェインが染み渡る脳に、朝の平原とレールの振動が同時に伝わってくる幸福感は何物にも代えがたい。
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さほど時間が経たずして、料理の方がやってきた。ポーランド国鉄の食堂車は総じてレベルが高く、シンプルな料理でもかなり満たされるものがあった。写真にはないが、ここにパンまでついてくるので大満足である。
実はコンロがいまだに使用される食堂車は、中東欧でも非常に貴重な存在なのだ。特にポーランド国鉄は、超特急のEIP/客車特急のEIC/電車急行のIC/客車急行のICと、車種を問わず食堂車が連結されるものには全てコンロを装備している。例えば隣国のチェコでも客車急行にはコンロが装備されているが、超特急レールジェットにはコンロがついていない。
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チェコ国鉄ではスヴィチコバー(牛肉の甘いクリーム煮、これも非常に美味だ)を急速冷凍したものを食堂車で提供しており、コンロに頼らなくても絶品料理を提供できるシステムが構築されているのだ。これはこれで凄まじい技術であり、さらにはピルスナーウルケルの生樽サーバーを標準装備しているので、非常に優れた供食装備となっている。
それでもなお、最新型車両にもコンロを配備し続けるポーランド国鉄には独特の矜持があることを強く感じさせられる。お国ごとの食堂車スタイルに甲乙はつけがたいが、やはりこれは特筆すべきことだろう。
何より、日本でここまで気軽に食堂車にアクセスできる機会はめったにない。まさしく、欧州の偉大なるロマンだ。乗車する列車に食堂車が連結されることが分かれば、私はたとえ紅茶1杯を得るためだけでも食堂車に向かうようにしている。
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食堂車の優れた点としては、そもそも座席自体が快適だということもまた挙げられる。日本ではこれが仇となり、東海道新幹線では自由席利用者が新大阪から東京まで食堂車を占拠してしまい、廃止の一因となったという痛い過去もある。
私も中東欧では自席よりも食堂車の方が心地よいという理由から、1時間半は食堂車に平気で居座ってしまう悪い人間になってしまうのだ。もっとも、中東欧では原則として座席は全席指定であり、私にも食堂車が混雑してきたらそそくさと自席に戻るという良心くらいはある。
結局、始終食堂車が満杯になるということはなかったため、キリがいいので国境を越えるまでは食堂車に居座ることにした。
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ポーランド側の最後の駅Rzepinを発車し、国境に近づく。車窓はただひたすらの平原と、荒んだように見える郊外の街並みばかりだった。日本からいきなりやってくると新鮮な景色かもしれないが、変わり映えしないので1時間もすればすぐに飽きが来てしまう。実際のところ、日本ほどに海/川/山/都市というふうに、短時間で車窓がダイナミックに変化する国もそうそうないのである。
さて、国境だ。先述の通り、国境検査はないので淡々と列車は橋を渡っていく。ポーランドとドイツを隔てるオーデル川は両脇に湿地帯を携え、晩夏の空の下を静かに流れていた。
橋を渡り切ったとて、景色に大きな変化はない。ドイツ側の国境でしばし停車した時には「いつもの癖」で国境警備隊が乗り込んでくるのではないかとつい感じてしまったが、当然そんなことはない。5分ほど停まったのち、列車は静かにFrankfurt (Oder)駅に到着した。
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自席に戻るついでに、一瞬だけ駅のホームに降りてみる。Frankfurtといっても、多くの方々が思い浮かべるであろう、美しい旧市街と薬物とアルコールと諸々の欲望が詰まっていることで知られる街はここではない。あちらはFrankfurt am Mainといい、Oderの方からは直線距離で470キロも離れた全くの別物である。
駅舎は閑散としており、特段活発なドイツ語が聞こえるというわけでもない。あまりドイツにきたという印象をあまり与えないまま、列車は扉を閉めてベルリンへの旅路を続けた。
車窓から見えるのは相変わらずの平原である。しかし、ここがあのドイツかと考えるとやはり感慨深いものがあった。今でこそスラヴ語地域ばかり飛び回っている私だが、高校時代にはどういうわけかドイツ語をやってみたと思っていた時期もあった。ある意味では、ここもまた憧れの土地なのだ。
さて、ここでドイツ国鉄の車掌がやってきた。ずっと食堂車に乗車していたからとはいえ、改めて考えてみるとポーランド国内では検札が来なかったことをふと思い出した。
ドイツ国鉄は遅延、行先変更、運休があまりにもワイルドすぎることで有名である。少なくとも私が今回迷惑を被ることはなかったのだが、旅程崩壊だけは正直かなり恐れていた。しかし意外だったのは、車掌の制服姿である。ダンディなイケオジ車掌の首元からは美しい紫色のネクタイが下がり、彼の物腰も非常に柔らかかった。これがドイツの一般的なイメージに適合しているのかどうかは分からないが、この瞬間は明らかに「別の国に来た」という印象を私に植え付けた。
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ベルリンに近づくにつれ、車窓にも明らかな変化が見えてきた。分かりやすいところで言うとすれ違う列車である。ドイツ版超特急であるICEはヨーロッパの東側では見られない車両であり、明らかにドイツにやって来たことを感じさせるものだった。通り過ぎる駅にもドイツ語が見え、駅舎の雰囲気も、街並みも、ポーランドとは異なるものが少しずつ増えていった。
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そして近郊列車であるSバーンの車両が見えた時、本格的にベルリンにやって来たことを実感した。ポズナンから2時間40分以上に渡るこの列車との旅路も、もうまもなく終章である。ベルリン東駅の到着アナウンスが流れたところで、私は席を立った。
本当の越境
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ベルリン東駅のプラットホームを静かに踏みしめると、そこには所狭しと足場が組まれていた。どうやら改良工事をやっているらしく、窮屈な場所を抜け出して階段を下りる。駅の標示もポーランド語なら多少わかるものが、ドイツ語だと全く分からない。初めての首都に恐れおののきながら、南口を目指した。
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まずはベルリンの都市交通フリーパスを購入する。1日券で1500円程度の値段になったことにまず面食らったが、これでも3回乗れば元が取れるのである。なんとも恐ろしい国に来てしまったものだ。
発車標の規格は欧州統一らしく、見慣れた青色のモニターが目に入る。しかしながらそこに記されているのは主としてドイツ語であり、あたかもパラレルワールドにやって来たかのような錯覚に陥る。困惑することだらけだったが、戸惑っていても仕方がないのでひとまずは街に出ることにした。
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列車をあえてベルリン東駅で降りたことには理由がある。それは「東西の壁は歩いて越えたい」という思いがあったからだ。かつて東西が分割されていた時代、ベルリン東駅は東側行きの列車が行きかうターミナル駅であった。東側諸国の1つであったポーランドから来たということもあって、せっかく「壁」を越えるならば歩いて越えたかったのだ。
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ではその当の壁はどこにあるのかというと、東駅の目の前にある。色とりどりに思い思いの絵が描かれているゆえ、あの冷酷な壁という印象は真っ向からまず破壊される。しかし、これこそがほかでもない、1つの街を明確に分割していた壁なのだ。
壁の向こうにはシュプレー川が流れており、事実上の境界線はその川に引かれていた。本当の西を目指すためには、しばらく南東に歩いて橋を渡る必要がある。
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道中にはあの有名なおっさんずラブ、もといソ連の指導者ブレジネフと東ドイツの指導者ホーネッカーの熱いキスの絵がある。
壁にはロシア語で「主よ!我をこの死の愛の中から救い給え」と書いてある。ベルリンの壁崩壊直後の1990年に描かれたこの絵は、全面的な修復を経ながら現代に残り続けた。キスはソ連の首脳が行う伝統的な友愛の証だったのだという。
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壁と絵を眺めながら歩くこと15分あまり、本格的に東西の境を越える時が来た。美しい塔が特徴的なこの橋はオーバーバウム橋といい、レンガ造りの上段をUバーン(地下鉄線)が渡り、下段を道路と歩行者が渡るようになっている。かつて壁が崩壊する以前、ここはシュプレー川を挟んで東西を結ぶ橋だった。
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1896年に竣工したこの橋は、第二次世界大戦や東西冷戦といった現代史の激しい渦に巻き込まれてきた。特にベルリンの壁が築かれて以降は、特例を除いて自由な往来は認められなかった。橋上は東ドイツの検問所となり、鉄道の運行も停止された。
東西冷戦期には実用的な橋としての活用はほとんどされていなかったこの橋も、1989年に壁が崩壊すると修復工事が行われ、1994~5年にかけてついに道路と鉄道の往来が復活したのだ。
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かつての境界線だったシュプレー川を橋上から眺める。テレビ塔こそ特徴的だが、あまり両端の街並みに大きな違いがあるわけでもない。ただひたすらに長閑な9月の街が広がっていた。
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レンガ造りの鉄道橋の下も通ることができるようになっている。建築物としては美しいが、暗さゆえに妙な殺伐さがあるので、景色を眺めるなら覆いのない北西側の歩道を歩くのが良いだろう。
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橋を渡りきるとそこはかつての西側である。とはいっても統一後30年以上を過ぎた現在では、特筆して街の雰囲気が変わるということはない。当然街を子細に眺めていけば東西の差異があらゆるところに見えるだろうが、一見するところでは完全に1つの都市として成立している。街の繁栄としては、間違いなくそれは「良いこと」なのだと思う。
オーバーバウム橋を抜けた先では、Schlesisches Tor駅が出迎えてくれる。東西が隔たれていた時代は、ここが西側の終着駅だった。Uバーンはもともと車体が小さいゆえ、かつてのターミナルといっても随分小ぢんまりとした駅になっている。
西側に辿り着いた感動を感じる間もなく、ベルリンに降り立ったら絶対に行きたかった場所へ向かうため、そそくさと階段を上りUバーンへと乗り込んだ。
空港
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向かった先はテンペルホーフ空港である。空港といっても、現在は使用されておらず、廃港になったままターミナルや空港敷地が公園として残されている。この空港にはいくつもの特徴的な点があるのだ。
まずはターミナルの建築である。これは第二次世界大戦中にヒトラーが世界首都ゲルマニア計画の一環として、建設を指示した荘厳な第三帝国建築だ。このように荘厳な政治的現代といえばモスクワのスターリン・ゴシック建築がつい思い浮かんでしまうが、現代での扱いは間反対のように異なる。
スターリン・ゴシックと違い、そもそも第三帝国建築はほとんどこの世に残っていない。それもそのはず、「悪の権化の象徴である」という残念でもないし当然な理由によって、戦後に徹底的に破壊されたからだ。
しかしながらテンペルホーフ空港に関しては、空港という性質上「戦後復興に役立つ」という点から、「不適切な紋章」だけを撤去して破壊は免れた経緯がある。空港全体の形状も空港らしからぬ丸形をしており、非常に特徴的な存在だ。
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しかしながら、この空港の重要性は建築や特徴的な形状に留まらない。かのベルリン大空輸の舞台になった空港なのである。
1948年6月、ソ連は東西対立の実効手段として、ベルリン封鎖を実施した。西ベルリンとはいわば東ドイツに浮かぶ陸の孤島のようなものであり、ソ連の決定によりそこに至る道路と鉄道が全て封鎖されてしまったのだ。
こうなると西ベルリンは兵糧攻めである。西側諸国が指を咥えて眺めていては、市民たちが干上がってしまう。そこで打ち出されたのが西側に接収されたテンペルホーフ空港を使用した物資輸送作戦、いわゆるベルリン大空輸である。
封鎖は1949年5月まで続き、空輸は9月まで継続されたが、15ヶ月間で実に27万8000回もの飛行が行われた。ここは西ベルリン市民の命を支えた、栄誉ある空港なのである。
そんなテンペルホーフ空港も、市街地にあるという特性が仇となり、空港拡張ができなかったことから就航便数は減少の一途を辿った。最終的には空港機能を全て郊外の空港に譲る形で、2008年に廃港となったのだ。
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廃港後、広大な空港の敷地は公園として開放された。こうして滑走路がそのまま残されている場所には滅多に入れないため、ただ歩いているだけでも非常に面白いものがある。
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肝心のターミナルビルは一般公開されており、ツアーを申し込めば内部も見学されるらしい。しかしながら公開されるのは主に週末とのことで、週初めに訪問したゆえに見学は叶わなかった。平日は人こそ少ないが、こういった落とし穴もあるのが難点である。
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時々空港設備らしいものが見える以外は、基本的に野原である。謎の引き込み線のようなものを眺めながら、日陰に移動してポズナンで購入したパンを昼食代わりにした。
レストランに入ってもよかったが、特にドイツで食べなければならないようなものも思いつかなかったし、あの物価高となれば尚更店に入るのも億劫だった。強いて言えば本場のウインナーは食べてみたかったが、そんなものはスーパーで少し良い腸詰を買ってカレー粉をかければ十分だと思ってしまうのは野暮だろうか。
モニュメントとしての境界
軽い朝食を済ませて地下鉄駅に降りる。ベルリンに来て驚いたのは、地下鉄駅がほとんどモスクワと同じ匂いがするということだ。少し焦げたようなかび臭さ、あれがベルリンの地下鉄にも漂っているのだ。
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次に目指すのは「壁」である。
東西分断期には155キロにも及ぶ長さで絶対的に存在していた存在であり、つい先ほどベルリン東駅の近辺でも目にした壁だが、実は現存する区間はさほど多くない。多くないからこそシームレスな街の在り方が復活できたのだが、やはり所々には歴史的遺構として残されている部分もある。
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まずは有名どころから、チェックポイント・チャーリーだ。
壁で分断されていた東西の間にも、当然ながら検問所(イミグレーション)は存在していた。東ベルリンの市民の自由な往来は許されることがなかったが、東西の外交官や東側の特権階級が行き来することはあったのだ。
また、ビザや強制両替などの面倒な手続きこそ必須だったが、西側の市民や外国人が東ベルリンを訪問することは許容されていた。特にチェックポイント・チャーリーは、西側諸国の軍関係者の軍関係者が通行を認められた唯一の場所だったという。
検問所の小屋は実は壁の崩壊に伴い一旦は取り壊されたのだが、観光地として再建されたという経緯がある。上の写真で私が写真を撮った場所がかつての西側で、直進するとそのまま東側に入域することになるといった格好だ。
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国境標識は英語/ロシア語/フランス語で主に表記されており、まさしくこれはかつてのベルリンを統治していたアメリカ/イギリス/ロシア/フランスの言葉だ。その下に小さく表記されたおまけ程度のドイツ語を見ると、なんとも複雑な気持ちになる。
さて、そんな東西の歴史を象徴する拠点の1つも、現在ではベルリンを代表する観光地となっている。それゆえぼんやりと写真を撮っていると、観光客をターゲットにした募金詐欺の集団が寄ってきてしまう。
感慨に耽っている暇もなく不快な思いをする羽目になるため、ここはそそくさと撤退するのが吉だ。いっそう厄介なスリなどに狙われないうちに、よその場所に移動することにした。
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東西を分割する壁といっても、機械的な一直線の壁が北から南に引かれたわけではない。詳細な分割の根拠はわからないが、想像以上にその境界線はジグザグに引かれている。
チェックポイント・チャーリーも例外ではなく、地図で北を上にして見ると、南側が西ベルリン、北側が東ベルリンということになるのだ。つまりこの近辺では地図上の東西の線に沿って壁が建設されたことになり、チェックポイント・チャーリーのすぐ東側にはまた別の壁の遺構を目にすることができる。
とはいえ、この遺構はいたってシンプルである。壁の1ユニットだけがポツンと残され、彩色された像の台座としてモニュメントになっている。ガッツリと壁を残してもハッキリ言って邪魔であろうし、こうした記憶の残し方も1つの手段なのだと妙に納得させられた次第だ。
一方、あえて当時の壁を長距離に渡って保存している区間も存在する。まさしくベルリン東駅の色とりどりの壁がその一例だが、より一層生々しく、当時の姿をあえてそのままにすることを選んだ例もあるのだ。
その壁が続く場所を目指し、私はバスへと乗り込んだ。
↓次回 ベルナウアー通りからポズナンに帰るまで