10月28日

少しずつ立ち直ってきた感覚がある。また自分の足で歩き出せていける気がする。内側の衝動に気づき、目を向ける。4月から今日まで、自分の頭で考えることを放棄した。無理だった。現実を直視することが出来ず、ただ逃げ続けた。だが、逃げても目の前に現実は存在し続けた。仕事、家のこと、別れたこと、一人になったこと。描いていた未来が崩れて空洞の自分に毎日気付かされた。苦しみから逃れようと自分を奮い立たせた。強くあろうとした。恐怖に対して自己理解を経て対応しようとした。だが、どれもが対処療法に過ぎず、また苦しみは襲ってきた。
常に現実は目の前にある。苦しかったらとことん苦しめば良い。考えたくないのならただ静かに、携帯すら、何もかも触らずただ布団に篭ればいい。死にたくなったら死ねば良い。そうして生きていれば、死にたいと考え、駅のベンチで座っていると、友人から電話が来た。娘がお前と話したいってよ、と。3歳の子供を持つ友人。
「お前、愛されとるやん」
その言葉を聞いた途端、自分はただ、愛されてると確信するために生きているのだと自覚した。
もう誰も見なくていい。心の内側だけを見る。自分は何かしたいのか。いまこうして文字を打つ。この行動をとった理由はなんだ。
数日前、姉が大量に薬を服薬し、自殺を図った。未遂に終わったが、母は動揺していた。退院後の姉は子供のように身体を丸くし、布団に篭る。
やっぱり、これだった。僕はなぜ写真を撮るようになったのか、それはそうするしかなかったから。自分の苦しみを、疑念を、怒りを、幸せを、複雑に心の内側で廻る思いを、自分から取り出したかった。そして自分を知りたかった。この文字を打つことも、その延長にあるものだった。日記、自分を変えるものではない。そうするしかなかったことの一つなだけ。何かを成し遂げる、保存する、大それたことではなく、当たり前の、一人ひとりの複雑さを、自分自身の複雑さを、複雑さのままにちゃんと見るために岡山へ向かう新幹線の中で、僕はこうして文字を打つ。
退院翌日、姉に全額払うから岡山へ行くことを勧めた。今姉は岡山にいる。初日は母が同行し、2日目の朝、母からのメールをみて泣けた。2段ベットの上で、柔らかい陽に包まれた、笑顔の姉がいた。
誰かが今日も死ぬ。誰かにとって大切な誰かが。そんなことも気にせず、僕らは笑顔で毎日を生きる。当たり前だと言わんばかりに。事実に直面するのを避け、社会人としてこういるべきだと自分を枠にはめ安心する。
僕はどうにもそんな世界を、好きにはなれない。でも、気持ちはよくわかる。そして自分もそちら側なのだ。心が教えてくれる。そんな社会は退屈だと。これからの数年、僕はとにかく動いてみたい。そして会いたい人に会いに行く。話したい人と話す。それを僕の仕事としたい。
仕事をし、働き、お金を稼ぎ、好きな人とイチャイチャしつつ。正直に言えば頭の9割はイチャイチャしたいで埋まっている。幸せな場所へ行きたい。自分が幸せになる、とかではない。幸せな場所へ。だからここから移動し、動くしかない。ただそれだけなんだ。


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