2月13日
今日は僕のしたいことをぽつぽつと書いてみようとおもう。
コロッケ買ってあの道をゆっくりと歩いて帰りたい。
夕日に背を向けて延びた時間を感じたい。
頭で考えると、すぐに適当なまともな現実的なしたいことしか浮かばないが、本当に僕がしたいのは違うよねってまたこうして確認作業は大事なんだよね。大丈夫。この文章は誰も見ないんよ。みんなにおおっぴろげに公開はしない。公開しちゃうとさ。ポエマーじゃんかよ、なんて言葉が頭の中のあの子たちが叫びだすもんだから、妄想なのに、妄想に傷つくんだから、ここで出しとけばいいのだ。こっちも持っておく。出し方を多種多様に持つ。
それだ。本音の出し方を多種多様に持っておくこと。この作業は実はとても高難易度なんだけども、僕はすぐに忘れてしまい、うーっと独り頭の中で考え込む。それで体が縮こんでいつの間にかお布団の世界に籠ることもある。
川沿いをさ、ただ手つないでゆっくり歩く。それがいい。萌笑の笑った頬の動きを思い出して時間が経過していく、そんな休日がいい。風の中から音楽を感じとる。それはくすっとおかしい行動くらいがちょうどよくて、ほら笑ったっていいたいだけで。色とりどりの花よりも畳に染みる陽だまりの芝生の方がよかったりして。そんなことを帰りの電車の中で考えていたら涙がとまらなくなった。
本当に何しているんだろう。人流に飲み込まれている。僕はベンチで寝ころびそこで出会う人たちとただ会話したい。イヤホンなんかして電車に乗っている場合じゃないんだよ。それだと死ぬぞ。君の本音をきかせてくれよ、って車窓に映る自分に声をかける。
佇む自分の手を取れるのは自分しかいない。ただ、その自分は、幼い友達がみんなかえって公園でひとり、日が落ちて家に帰りたくないから公園でひとりボールを蹴っていた自分なんだ。それが分かったときの、その自分に対する手の差し伸べ方。ぼくは今なぜか涙があふれている。なぜか分からないけど涙が止まらない。この事態を僕は忘れてはいけない。この日記を書く作業が、したいことを思い出す、本音をだすという営みが、今日の僕に手を差し伸べている。一緒に帰ろうと差し伸べている。帰れるんだと安心している。いつもの通い道、乗る電車、映る自分。弱りきっているのに慣れた顔してこちらを向いている。本音はどこだ。
ここだよと叫んでいる。指をうごかしまずはぽつぽつ打ってみよう。バカにする人はもうここにはいないのだから。君と僕君と僕。ブランコ乗ってゆっくりと忘れられないあの風を僕はここから感じている。あなたがくれたのど飴なめて、きれいな手だねと褒めてくれたあなたのしわくちゃな手をにぎって家までゆっくり帰り道。それが幸せやん。なにを勘違いしているのだろう。僕は。幸せな光景を社会のフィルター通して比較して、それはつまり乗っ取られているわけで、そのことに一切気づくこともなく、満員電車にゆらゆられ。助けてくださいってみんな言っていいのにどうしてだ。思い出だけが助けてくれる、そのときを知っていたはずなのに、忘れていて、こうしてまたおもいだして。
髪書き上げて、鏡見て、その自分もいいけども、そのそれだけになってはいないか。自分の顔をみているよりも、笑っている自分のほほの動きに気が付く、その瞬間の方が素敵じゃん。その瞬間こそがいちばんの薬なんだと、思い出した。
ふとあたまの中でアガンベンが浮かぶ。彼の本を読めということか。この流れにのろう。理想像なんてどうでもいいよ。今日何をしたか、ただそれだけ、それこそがいつかの僕になるのだから。そして、その僕をすり抜けて心の動きに耳をすませる。そのためにまずイヤホンはしまっておこう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?