8月12日
朝から、母の弁当を作る。と言っても、餃子を焼いただけのもの。それとサラダを少し。7時15分に家を出る。送ってほしいと言われたので、駅まで車で送る。
帰宅し、自分の朝ごはんを作る。丁度姉が起きてきた。
「弁当私のも作って」
イラッとした。イラッとしたが、これを言葉にすると、更にイラッとすると思い、黙って作ることにした。でも、ただ黙って作るのもムカつくので、自分が楽しめる方を考えた。それが、ちゃんと作ることだった。
ちゃんと弁当を作ることに集中。すると、イラッとした感情はどこかへ流れ、料理への楽しさだけで満たされた。
「出来たよー」
笑顔の自分がそこにはいた。不思議な朝。
洗い物、洗濯物など諸々を済ませた。
9時姉が出かけた。
1人の時間。エアコンを切る。ベランダの戸を開け椅子に座り、一息つく。今日はいつもよりも、充実感に包まれていた。
「まだ9時か」
湿った風が肌にまとわりつく。それが無性によかった。時間と共に並走している気がした。
一時間程休憩し、用事を済ませに外出。病院へ書類を受け取りに行く事と、車の一年点検。
病院での用事が早く終わり、点検時間までまだ時間があるので、近くのカフェに入る。持ってきていた、ナタリーサロートの「子供時代」を読む。
一時間ほどで、30p。ゆっくりと、誰かに読み聞かせるように。
読みながら、小説なんて、ましてや本自体読んでこなかった自分が、小説を読んでいることに改めて不思議な違和感があった。これまで、なぜ読めなかったのか。読めなかった時の自分を振り返ると、そこには、小説の世界を真剣に受け入れられない自分がいた気がする。頭の中で、ツッコミが入り、なんか言い回しムカつくなーとか、設定おかしいだろとか、そのそも本読んでる自分かっこいい!なんて考えて、本自体に向き合ってなかった。
今なら、本の世界に浸かることができる。まず一旦その世界に浸かる。自意識を横に置いて。
点検を終え、アピタのフードコートで勉強。
エスノグラフィーに関する本をパラパラとめくる。飽きたところで、アガンベンの「哲学とは何か」を読む。この本がかなり面白い。図書館で借りて、返却期限切れてるけど、ずっと読んでる。特に音声の経験の章。もちろん全くわけ分からない。分かりそうで、さっぱり分からない。だけども、なんでか気持ちがいい。
姉に対し、イラッとした今朝、それを言葉にせず、別の行動に切り替えた事で、イラッととした感情が消えていた、そのことに、何か繋がる部分がある気がしてならない。言葉として口から音と一緒に出す前のもの、言葉の手前にあるもの。その場所。
とりあえず、読み進めよう。
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