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2月20日

滞在七日目にして、ようやく市内を散策した。何個か目星をつけながら。その一つがスシロー。ペイペイで半額クーポンが出ていたのでそれを使うことにした。1210円分食べた。意気揚々と会計をする。1210円そのまま支払い。キャッシュバック方式だった。僕は説明文を全く読まない。大きく書かれている文字しか読んでない。注意文なんていつもスッとばしている。いつの日か、痛い目に遭うことはなんとなく想像がつく。これも改善しないとな。いつも深ぼろうとしない。こだわりが浅い。その先を夢中になってしがみつこうとしないのだ。なんとかならんか。
岡山市内を散策と言っても、駅周辺をぶらり。流石に徒歩だけでは限界がある。自転車レンタルは必須のようだ。散策範囲は狭いが、それでも楽しかった。岡山はなんとなく、隙間があるような気がする。凸凹している。この隙間は今の所私にとっては居心地がいいと感じる要因の一つだと思う。都市化へ向かう一方、田舎らしさがそこら中にある。時代が凸凹している。昭和、平成、令和がしっかりある。そして何より、川が綺麗だ。市内を流れる川の色は透き通っている。そのため、川に落ちているゴミがくっくりと見えている。なんか良い。完璧すぎないところが。隙あり、なところが。
本当にここは時間の流れがゆっくり進んでいるとしか思えない。のだが、気づけば夜になっている。
商店街を、たくわんサラダロールパン片手に歩いた。赤提灯がついている。路地裏でラッパーっぽい人がMVを撮影している。僕はRemis RančysのTyliau – Garsiauを聴きいている。
そういえば、午前中に、ラウンジカドで駄菓子屋さんが出店していて、200円分くらい買って食べた。出店した人は完全に趣味でやっているという。働きながら、休日にこの活動をしてるところにぐっとくる。自分の楽しみ方を自分らしく持つ。それってどういう風に形成されていくのだろう。その店主の人が、他のお客さんと、自発性はどう生み出せば良いのか話していた。二人とも仕事がら子供と接しており、やる気が起きない子に対しての対応に困っているらしい。
またまた、そういえば、スシローに行く前に イ・ラン「悲しくてかっこいい人」というエッセイを読んでいた。その本で、著者のイ・ランが中学生に対し音楽を教える機会があり、反抗的で、作詞の宿題を一切してこない子に対し、「今から君は嘘だけを話しなさい」と伝えたところ、作詞を始めたという内容が書かれていた。僕はこれにとても感銘を受けた。真正面に受け止めるのは、態度でいい。かける言葉自体が真正面から(正論のような)ではなく、少しずらす。そう思っていたためだ。しかし、ずらし方、かける言葉がわからなかった。この文でなんとなく掴めた気がした。実践して確かめてみたい。僕の場合の実践は作品に落とし込まれる。予定。いかにずらすかしか考えていない。とりあえず、この本を読み切ろうと思う。今ままでエッセイなんてゴミだと思っていたけど、これは全く違った。というかそもそもエッセイ読んだことなった。食わず嫌いしていた。僕はそういう食わず嫌いがかなりある。他にもNPO法人は大嫌いとか。アート系を醸し出してくる大学生とか。つまり、幸せそうに見えるものが嫌いなのだ。つまり、僕はゴミくずなのだ。友人曰く、「嫉妬やん」。間違いなく嫉妬なのだが、僕はいつも、嫉妬する側でいる事を意識的に行なっているのだ。それは、無気力状態だった自分が常時その状態だったからだ。嫉妬をする側の気持ちを抱え続ける。光輝く物ではなく、日陰、または日向をみる。イ・ランのこの本書に“幸せに怯えながら“という文がある。僕はこの表現がかなり好きだ。もちろん自分自身、幸せになりたいし、僕が幸せそうに見える人たちも、僕が見えている部分以外で苦労や苦悩が多々あるのは分かる。分かった上で嫉妬する。もはや、癖のような状態です。ぶっ壊したい衝動。平にしたい衝動。これは、僕自身が努力というものを全くしてこなかったから、このような性格になったのだと解釈している。でもそれを、その嫉妬の力量を、力量を利用していい方向に持っていく。ゴミで走る機械だってあるじゃないか。もう何言ってるかわけわからんくなってるので、今日はこの辺でやめておく。

この文を書いている最中に、渡辺から電話がきた。彼も悩みもがいてるらしい。しかし、最近は良い方に進む兆しが見えてきているとのこと。私も彼に負けぬように
自分をいい方へ、流れに身を投じていこう。


シャッターを閉め、広場で大きく息を吸っていたら思い出した。
水やりについて。ここでは、仕事の一つとして植物に水やりをするというものがある。1週間その仕事をして気づいたのは妙に気持ちがいいと言うこと。そういえば、僕は昔、小学生のころ、家の中で花の水やり当番だった。正確にいうと、風呂掃除、カメの餌やり、ビールの缶を踏み小さくして片付け、花の水やりの四つ当番があった。小学生の頃、その全てが嫌いだった。特に花の水やりが。バケツに水を汲んで、水を与えるのだが、そのバケツが重いのだ。半分ずつ入れて持っていけばいいのだが、僕は横着なのと、めんどくざがりや(一気に持っていく方がめんどくさいのに)なので往復する事を嫌い、バケツ一杯に水を入れ、両手で持ち手を持って、水がこぼれないようにカニ歩きでゆっくり運んでいた。こうして当時を思い出すと、あの時の間取りや、ベランダの情景が蘇ってくる。ボロボロの鼠色したゴミ箱、荒れている花壇、汚いカメの水槽、姉の部屋はカーテンが閉まっている。どうやら僕が思い出したのは、夜のようだ。そうだ。花の水やりを夜していた事が多かった。家にいるときは大概夕方過ぎだったんだ。それまでは外でずっと遊んでいた。家に帰りたくなかった。帰ったらあいつがいるからさ。あいつだけじゃない。家族全員嫌いだった。だけど家に帰る。帰ると、家族がいる。家族がいるから、あいつとも仲良くしたくなる。どっかであいつのことが好きだったんだ。父親らしい瞬間がたまにあった。その時の彼が僕は好きだった。だから、それを求めて、彼の言うことを実行していた。だから、ビールの缶も踏んで片付けたし、足もマッサージした。あいつが飲んでるから、牛乳も毎日飲んだ。一緒にゲームがしたくて側にいた。そういう、痰みたいな思い出がある水やりですが、ここでの水やりは心地いいんです。まず、何より、バケツじゃないと言う点。ホースなんです。ホースで水やりができる。このお手軽さ。サーっと水が飛び散っていく快感。雨のように水をかけた方が良いのか、根本にサササッとかけた方が良いのか、なんて考えてしまうほどです。
水やりが気持ちいいいのは、ただただ、この場所が心地いいからなんです。本当に。朝ドラのような爽やかさがここにはある。建築ってすごいと思います。場所の力すごい。それだけじゃなく、それを作った人、その人達の人柄が滲みでちゃってる。と思います。僕はこの場にいて、水をもらっているのだと思います。僕が植物なのだと思います。心を満たしてもらっている。幸せです。僕は今幸せですと言える。
「幸せに怯える」イ・ランが言っていた。幸せなんてそんなものだよ。だからこそ定期的に水を与えるのだ。僕らは土であり、植物。土が植物なのかもしれないけど、まあここではその言及はよしておく。僕は今もしかしたら、水の与え方を学んでいるのかもしれない。ここで、与えられながらも、学ぶ。きっとそうだ。そしてその学びは未だ、浅い。しっかり見よう。学ぼう。

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