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木漏れ日が美しいと思える悦びと力強さ

家にこもっても、外に出るのもストレスフルな日々。

気分転換にカフェに行こうにも、持病のある家族のことを想うと気が引けて、最近は外をただブラブラと歩くだけのことも多い。お気に入りは、近くの公園やその周辺の小道。行こうにも、ストレスなく行くける場所がほかに思いつかないのだ。毎日のように遊びに出かける周りの友達を横目に、なけなしの誘いを断り、一人、ただ公園を歩く。

私がよく行く近くの公園は、武蔵野の雑木林や水の気配が感じられる、大きな公園で、近くにこのような場所があることは、非常に恵まれていた。少し前までは、紅葉が美しかった。

幼いころ、植物好きの母と祖母に手を引かれて、かつて住んでいた家の近くを毎日のように散歩した記憶がある。埋め立てによって成立した地域であったため、散歩で出会う植物は、ありふれたものばかり。それでも、母や祖母は、「これは春になったらこんな花を咲かせるんだよ」とか、穴の開いた街路の葉っぱを見ながら「こんなにいっぱい虫に食べられちゃってかわいそうね」などと、いちいち足を止めて私に語りかけた。

当時は、ふーん、そんなことより早くパン屋さん行きたいな、と考えていたことも多かったけれど、今となってはこの美しい記憶が、私の感受性に大きすぎる影響を与えてくれていたことは疑いようもない。

武蔵野の雑木林で紅葉を見る今、私の手を引いてくれた祖母はもういない。交通事故という突然の出来事を、数年経った今も少しも消化できずにいるが、美しくて優しい記憶が持てたことに感謝してもしきれない。それに、出好きだった、五十路に入ったばかりの母は、私が幼いころにしてくれていたような、近所の散歩に杖をついて出かけるのがやっとになった。あんなに元気に歩いていたのに。

だからこそ、思うように体の利かなくなった母は、これまで以上に家の周りの雑草や街路に咲く小さな自然に目を向けることを、半ば強いられながら楽しんでいる。そんないつもの退屈な風景の中に、小さな悦びを見つける彼女の力強さに、私は涙が出そうになっては、見なかったことにして、より意識的に鈍感になることで、毎日をやり過ごす感覚がある。

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武蔵野の公園の雑木林を一人で歩く。

今日は風もなく、よく晴れて木漏れ日が美しい。水面に反射する太陽の光が、ゆらゆらと揺れるのも、それが周りの木々に反射して、木々がキラキラと光るのも、ほんとうに美しい。これを美しいと思える自分、美しいと足を止めることのできる自分も悦ばしく、また誇らしい。

かつて友人と歩いていた時に、この花きれいだね、と街路に咲く花を指して言いかけたら、不思議そうな顔をされたときがあった。そっか、こういうオチのない話ってしちゃいけないんだ。こんなものをきれいって思うのは、もしかしたらカッコ悪いことなんじゃないか。そう感じ、道端の自然を美しいと思うことを封印していたこともある。

でも今は、どんなに小さなことにも、そこに美しさを見出すことのできる悦びと力強さを心から感じている。同時に、その瞬間は、自分の感情に正直でいられている実感と悦びがある。いつものように、悲しくなるから、涙が出そうになるからと、感情を抑える必要もなく、また、突然来る終わりの存在に怯えることもなく、美しいと感じたままに、正直でいられる。

自分が美しいと思うものに、自信をもって美しいと思えること。「周りが何と言おうとも、自分の道を突き進め!」といった、よくある成功者の名言に近しいところがあるかもしれない。でもそんな壮大で攻撃的なことじゃなくて、身近なところに、もっと言えば、自分の内面との対話レベルで、「自分が美しいと思うものに自信を持ちたい」と思っているだけ。

その刹那的な、でも確実な悦びは、やりきれない、日々の繰り返しと、突然来る終わりへの恐怖から、一瞬だけ解放させてくれる力強さをも秘めた、自分だけに効く偉大なるおまじないでもある。だからこそ、というのは大げさだけど、今のところ、それを例の成功者のセリフのように昇華させる予定は全くない。

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