表現すること
LINEとmessengerしかやらない私は、「表現すること」の意味がよくわからなかった。大学の同年代の友人からは、なんでSNSやらないの~とよく言われるし、自分が知らないうちに、周りのみんなはSNSで仲良くなっている、なんてことも日常で。でも、なんで自分のことを発信するのか、表現するのか私にはあまりわからずに、浮世離れした感じでここまで来てしまった。それで、どういう風の吹き回しでnoteを始めようと思ったのか、自分で整理してみようと思った。
「表現すること」に対して、今の私が影響を受けている人はたぶん3人。うち2人は同級生の友達。もう一人は私が参加したオンラインイベントの主催者で、年は10個くらい上。多くの人がそうだと思うけど、人は自分が好きだと思う人の影響を受けやすい。つまり私は、この3人のことがみんな好き。
一人は、東京藝術大学に通う友人で、表現することや、それを受け取ることに対しての、私の臆病な気持ちをびっくりするほど和らげてくれたお友達。一緒に絵を描いたり、街を歩きながら心が動いた瞬間を共有したりすることで、表現すること、それを受け取ることは評価が及ばない領域なんだと思わせてくれた。彼女は、物事をとらえ、そこにアプローチする方法が正反対といってもいいほど私と異なっている。でも、その違いをありのままに面白がる彼女の影響で、「表現すること」への意識が変化していったように思う。
もう一人は、現在休学中の同じ大学に通う友人。あったかくて、優しくて、安心して自分の感じたことを話したいと思わせてくれる友達。素直に感動し、それを言葉にしたり、歌を作って発信したりしている彼女の姿が、表現することのシンプルさを教えてくれたような気がする。表現することに目的は要らないのかなと思えるようになった。
「アウトプットは早い方がいい。フィードバックをもらえるから」というのは10個ほど年齢が上の社会人の方に言われた言葉。その方にフィードバックを頂きながら、何時間も自分のことを話した最後にかけられた言葉がやけに心に残っている。何でもいいからアウトプットしてみて、損はないのかもしれないと、未完成の自分や未完成の自分を表現することの背中を押してくれた。
私は小さい時から思ったことを口に出さずに叱られ続けてきたし、周りを不安にさせていたのだろう。どう思ってるの?何がいいの?こんな風にわざわざ聞いてもらってやっと、うーんこれがいいかな、と言えたり言えなかったり。きっと、確信を持ったことしか口にしてはいけない、間違ったことや後から変わってしまうかもしれないことを周りに発信することは、迷惑になってしまう。そんな意識が物心つく前からあったのだろうと思う。今もその傾向は変わっていない。でも、上記の3人との出会いや、その他の様々な人々との出会いが、表現すること、話すことを、恐れなくていいということを教えてくれたように思う。
この世に生きている人はみんな、プロセスを生きているのであって、全員が未完成なわけで。だから、私が表現することに対して抱いていた恐れは見当違いだったんだと思う。そして、表現とは必ずしも、誰かに向けられているものとも限らなくて、表現したいから表現する、というシンプルなもので。それゆえに、受け取る誰かやその評価を必ずしも気にする必要があるわけでもないんだと、完全にではないけど、少しは思えるようになった。
また、未完成だからこそ、発信することは恥ずかしいことでもなくて、それによってリアクションがもらえるのならば、積極的にしていってもいいのかもしれない。というわけで、noteで、私は人生初の発信を始めたのだった。相変わらずSNSはやらないけれど、自分のことをわかるようになるための発信ならば、誰かに向けられた発信である必要がないのならば、やってみようと思い立ってみたところだった。
そして、始めてみて10日ほど。受取手を意識しないnote投稿にハマっている自分に驚いている。