04 学びづくりとは?
ここまで、学びづくりをする上で「01回 題材名」と「02・03回 題材の目標」とはどんなものかについて触れてきました。
題材の目標についてはもう少し深掘りしたいと思いつつ、「ん?待てよ…そもそも学びづくりって何?授業づくりと何が違うの?」とか「題材名とか目標の前に、まず教材研究でしょ!」っていう疑問や指摘が頭の中に湧いてきました。
というわけで、島田が使っている「学びづくり」という言葉について、説明しておきたいと思います。
授業は何で成り立っているのか?
島田が「学びづくり」という言葉を表だって使い始めたのは、2019年(令和元年)の群馬大学の「教職実践演習」の講義のタイトルとしてです。
当時のFacebookの記事にも
と書いてあるとおり、「授業づくり」から「学びづくり」への転換が、これからの教員にとって重要であるということを、教職課程の学部生の段階で心がけてほしいと思っています。
では、具体的には何を意味しているのか?
ずばり言えば、「主役は子ども!」ということです。これまでの教育研究では、題材構成や指導言(、今なら端末の活用方法もかな?)など、授業に対する教師の準備や立ち振る舞いが中心に研究や研修されてきました。
しかし…
新しい学習指導要領では、学びの主体者としての子どもがどんな資質・能力を身に付けていくのかが記述されています(03回の記事参照)。だから、題材構成を学びの主体者視点で考えると、本来「授業づくり」ではなく「学びづくり」と呼んだ方がいいと考えています。そして、この視点で今までの「授業」を見直すと、「この曲はこう教える!」「やっぱ、音楽の授業はこうでなきゃ!」みたいな、今まで当然だと思っていた慣例や習慣のようなもの(たぶん、教員が気付いてないだけ、もしくは、気付かないふりをしているだけで、かなり多くある)を排除して、子どもが知識や技能を習得したり思考・判断したりすることにより寄り添った50分を生み出すことができると思うのです。
学びづくりの視点で変化するもの
指導から支援へ
まず、コレでしょう。教えるとか指導するとか、偉そうに「先生」ぶるのはもうオシマイ!子どもたちが学びを進めるサポートをするのが私達の役割になります。ファシリテータやメンターと考えてもいいかもしれません。子どもたちがCaro mio benを歌いたくなるような場を設定したり、鑑賞した楽曲の価値について考えるキッカケをつくってあげたり…決して、「コレを歌え~!アレを聴け~!さもないと評価は××だ~!」的に脅迫するのが仕事ではありませぬ。
ただし、子どもたちが学びを進めていく上で持っていない「知識」や「技能」を、必要に応じて伝えることは必要です。この「必要に応じて伝える」ことをもって「教える」と言っていいのではないかと思います。私達が教員になる過程で受けてきたレッスンのように、「こう歌いなさい」「こう演奏しなさい」と、最初から最後まで手取り足取り、一子相伝のように先生のコピーになっていくような授業ではなく、子どもたちが「ん?今の状態ではこれから先に進めなさそうだ…」と感じている様子があったら、すかさず「よっしゃ!だまされたと思って、いっちょ、オジサンの言うとおりにしてみーやー」と謎の関西弁で提案し、しっかりと「教える」のです(子どもたちの思考に沿っているなら、そういう場面を意図的につくってもいいと思います)。このことで、「お~、上手くいった俺もすごいけど、音楽の先生ってスゲー!」となるのは間違いなし。それを、先述のレッスンのように手取り足取り教えちゃうと、せっかく教えた知識や技能も、「やらされ感」満載で「コレができないと評価が悪くなるわけね」という成績のための勉強になっちゃいます。
学習課題から探究課題へ
上記や題材名(第01回の記事参照)と密接に関係しますが、何を学ぶかの具体を子どもたちがどう受け止めるか?は、主体的に学習に取り組む態度の育成に関わってきます(「どうせ勉強するなら、楽しくためになる方がいい!」という意見に反対する人はごく少数でしょう)。
例えば、Caro mio benを歌う題材で、「イタリア歌曲らしく歌う」というド直球の課題を提示するのは、私達が経験してきたレッスンとその発表会と同じです。一方で、「世界各国の愛の表現には違いはあるの?」というような問いからCaro mio benの世界に入っていくと、「イタリア歌曲らしさ」「イタリア語らしさ」「イタリアの文化」を子どもたちが主体となって探究してくれそうじゃないですか? ね? そう思いません?
この辺の、探究課題と問いについては、また別の機会にまとめて書きたいと思います。
というわけで、「学びづくり」の視点から題材構成を考えていくことについてでした。音楽室の雰囲気というか空気が間違いなく変わりますので、ぜひ実践を!