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西日本が渡来人の言語に成らなかった理由を考察

1986年の小山修三氏の研究論文によると、縄文中期の人口は26万人だった。その96%は東日本に居住していた。ということです。

西日本では、7300年前に火山が爆発して、半島か大陸へ逃げた人もいるでしょうが、ほぼ壊滅状態だったからでしょう。その後、縄文晩期に人口が減ったものの、弥生時代になって、九州を中心に人口は60万人に増加しました。帰国組や難民や侵略渡来人も大勢いたと思います。

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不思議なのが、西日本がなぜ、シナ語文化圏にならなかったか?

たぶん、出雲族を含め、先住渡来人たちの共通言語が、古代日本語だったのだと思います。縄文晩期には、多くの多民族が居住していて、日本語でコミュニケーションをとっていたと推察します。

出雲王家と縁戚になった渡来人たちも、日本語を使用したと推察します。

では、なぜ、クナトノ王家は、タミル語を公用語としていなかったのか? 八重書きでさえ横書きだったのに?と思います。

考えられるのは、ドラビダ人が渡来した時の先住縄文人の文化レベルが高かったのだろうと推察します。尊敬できなければ、自分たちの言語を替えるとは思えない。ブリヤート人と先住縄文人のハーフたちが造ったムラに移りすんだクナト族は、そのまま縄文語を公用語としたのだと思います。名称も、”イズメ”という日本語に替え、寒冷化で南下することになった紀元前600年も、島根にいた先住民と混交して、出雲王国を建国したわけですが、やはり公用語は日本語だったということでしょう。

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クナトノ王は、2000人を引き連れて渡来したという説があります。1000年も経てば2万人くらいにはなっていたでしょう。縄文晩期の2万は多いです。イズメ族は、日本海側のミナトや、砂鉄を採集できる地に定住しますが、多くが現在の島根県で、出雲王国へと繋がっていきます。

タミル語を捨て、縄文人の言語を話し始めた出雲族は、不思議なことに、関東へは南下しなかった。後世になって、ヤマトを追われた出雲人は、南関東へ移住しますが、その言語もやはり日本語。関東で尤も公用語であったのが、縄文人の言語だったと推察します。

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タミル語を話すドラビダ人のルーツがイラン高原であったのに、日本語に替えたのには、縄文人に対する尊敬があったと推察します。

弥生の侵略者たちも、先住民の言語を、シナ語に替えることはできなかった。物部・豊国連合の言語がシナ語であっても、ヤマト以東は日本語をしゃべらないと馬鹿にされる文化があったのだろうと推察します。

出雲王家のウメガイ(鉄剣)を見て、ヒッタイトとその背後の製鉄大陸ケルトの存在を知ったのかもしれません。

ちなみに、北海道と八丈島は、稲作が伝わらなかった(渡来人が征服できなかった)ので、縄文語の痕跡を残すと言われているそうです。それに似た言語は、茨城弁。

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