Genzaburo

日本史的、 ・メモ ・仮説 ・推察

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【異説】日本史を貫く秘密勢力 水戸國體とひたちなか源氏 1

榎本武揚は、壬申の乱の時の大伴榎本大国の後裔なので、戊辰戦争は、出雲王国の独立戦争。1968年、蝦夷共和国建国。これは、英国銀行屋が認めて、正式に世界に発表された。良い国作ろう鎌倉幕府を開闢したひたちなか源氏は、水戸徳川家から、慶喜を将軍に据え、700年続いた征夷大将軍を返上した。 蝦夷共和国独立の代わりに、伏見宮新井(白石)君実の創設した閑院宮からの明治日本を水戸國體は、英国銀行屋に差し出した。代わりに、水戸國體は、バーターとして、水戸財務担当青山家(多田満仲(多氏)後裔

    • 西日本が渡来人の言語に成らなかった理由を考察

      1986年の小山修三氏の研究論文によると、縄文中期の人口は26万人だった。その96%は東日本に居住していた。ということです。 西日本では、7300年前に火山が爆発して、半島か大陸へ逃げた人もいるでしょうが、ほぼ壊滅状態だったからでしょう。その後、縄文晩期に人口が減ったものの、弥生時代になって、九州を中心に人口は60万人に増加しました。帰国組や難民や侵略渡来人も大勢いたと思います。 *** 不思議なのが、西日本がなぜ、シナ語文化圏にならなかったか? たぶん、出雲族を含め、

      • 蝦夷共和国独立の流れ

        明治元年wikiより 「慶応4年9月8日より明治に改元したが、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日に遡って適用される。なお慶応4年(明治元年)9月8日は西暦で1868年10月23日である」 蝦夷共和国wikiより 「明治元年(1868年)10月に榎本が函館入港中の英仏両艦長に明治新政府との仲介を依頼した」 「最初に「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは、1868年11月、英仏軍艦艦長に随行し、榎本と会見した英国公使館書記官アダムズだっ

        • 【考察】飛の元将軍安倍氏の蝦夷国独立今昔物語超ダイジェスト【備忘録】

          1、大彦から安藤氏へ 松江の向家王家は、分家に”向”を名乗るのを禁じた。分家は、富田や富永や飛(登美)を名乗った。大彦(アベ)は、伊勢から、北陸経由で、信濃と東北へ向かった。安東氏は、後年になって ”トミ(十三)湊”を拠点とする。 *** 2、エゾ島へ 時代は遡って、南部氏に追われた安藤氏は、武田信広を連れて、エゾ島へ逃げて、現在の松前を拠点にした。 武田信広は、若狭武田氏の出身という噂がある。富山(トミヤマ)は古代からツボとして発展していた。渡来人も立ち寄る港で北

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          【考察】増田万吉【備忘録】

          1、潜水業の草分け 幕末の生まれで、江戸に出て、火消しを職業としたあと、竹内綱の子の茂の養父である吉田健三が、倉庫番をしていた米国の倉庫の前任者の萬吉は、上総でサルベージの会社を作った。 萬吉は、和歌山の串本で沈んだ、トルコのエルトゥールル号の遺品回収をした潜水業者だ。同僚に賀川豊彦の父純一もいた。 和歌山は、出雲族の雑賀が定住していた土地。雑賀衆は、鉄砲製造・狙撃手、傭兵として、信長vs石山本願寺。秀吉の根来・雑賀攻め。など双方に参戦していた出雲忍者。萬吉も呼ばれたの

          【考察】増田万吉【備忘録】

          【考察】新旧出雲と征夷大将軍【備忘録】

          1、クナ族の渡来 出雲口伝伝承者によると、ブリヤート人商人に率いられて、インドから渡来してきたクナ族が、津軽に着いたのは、紀元前2000年の頃のようだ。 ブリヤート人は、縄文中期には、既に渡来していたようで、茨城県の中妻貝塚から発見された骨のDNA検査では、バイカル湖周辺のブリヤート人に似ているらしい。 ブリヤート人は、アジアで広く交易をしていて、インドのドラビダ人のクシャナ朝クナ族を率いて渡来してきたわけだが、クナ族の王をクナトノ王という。 *** 津軽に渡来したクナ

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          【考察】新旧出雲と征夷大将軍【備忘録】

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          メモ 中妻貝塚から推察する古代の交易

          縄文時代後期から晩期の大規模な貝塚、中妻貝塚(直径150メートル、25,000平方メートルの範囲におよぶ、厚さ1-2メートルの貝層からなる利根川流域最大の環状貝塚)から100体にも及ぶ骨が発掘され、DNAを調べたところ、バイカル湖あたりのブリヤート人のものに近いとのことだ。 ブリヤート人は、出雲伝承によると、アジアで広く展開していた商人だそうだ。彼らは、道具や種で商いをしていたのだろう。場合によっては、職人も動かす。 ブリヤート人商人が、何もない土地で貝塚を作ったとは考え

          メモ 中妻貝塚から推察する古代の交易

          【考察】戊辰戦争の真の目的-草稿 北方防衛と満州建国-【備忘録】

          1、官軍の戦費調達はロンドン 西郷と勝は、隠れ出雲族だと思っている。幕末から維新にかけてやわらかな文明開化を実現しようと思っていたに違いない。 *** 薩摩は、討幕の戦費を、”ロンドンのオリエンタル銀行”から借りた。明治になってからの鉄道敷設費用も技術も英国から導入している。鉄道は狭軌だ。距離はフィート。 薩摩は、英国王室の力を借りて、東征をした! 東京城は、英国王室がつくったかもしれない。 *** これは、グレゴリウス暦前のことだ。 2、賊軍の領地没収とその後

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          【考察】戊辰戦争の真の目的-草稿 北方防衛と満州建国-【備忘録】

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          メモ 松前の常陸領地と水戸彰考館の記述 北陸対問

          函館市史より 「天保年間に著述された『北陸対問』というのがあるが、これはそのころ松前や蝦夷地に通商のためしばしば往来し、その内情にくわしかった常陸(ひたち)の大内清右衛門という者から、水戸藩彰考館総裁国友善庵が、いろいろ聞きだして記述したものである。」 *** ちなみに、松前藩は、幕府に取り上げられた領地の代替地の一部は、常陸にある。

          メモ 松前の常陸領地と水戸彰考館の記述 北陸対問

          西郷と勝の江戸城無血開城の奥

          「勝海舟とお竜は、古くからの知り合いであった」 *** ここ数年、幕末の秘事を追い続けて、ピースをあつめていたのだが、出雲伝承者の富氏が書いた本は腑に落ちる。 東海道鎮撫軍参謀富村雄は、西郷隆盛の親友というだけのことはある。 *** 勝海舟の系譜について、少しふれておこう。 お竜が、富が坂本竜馬に付けた出雲くのいちであったことは間違いないが、お竜の上司が勝海舟であったなら、富と勝の関係もまた、推察できる。 米山検校wikiより 「米山検校は、1769年(明和6年)に旗

          西郷と勝の江戸城無血開城の奥

          【考察】交差する京都薩摩藩邸【備忘録】

          1、天誅組、中山忠光 落合莞爾氏がいう、オランダから閑院宮に潜入した光格天皇(1771年9月23日〈明和8年8月15日〉 - 1840年12月11日〈天保11年11月18日〉)の後裔の中山忠光(権大納言・中山忠能の七男。明治天皇の生母中山慶子は同母姉であり、忠光は明治天皇の叔父にあたる)は、尊皇攘夷の志士の集まりである天誅組を結成した。その天誅組に、吉野の雑民を引き連れて、出雲の富村雄が加勢した。 2、西郷吉之助に招かれた富村雄 生野の変の後、富は西郷吉之助に招かれ、京

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          【考察】交差する京都薩摩藩邸【備忘録】

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          【考察】黒脛巾組の淵源【備忘録】

          1、伊達政宗と真田幸村 伊達政宗の忍者集団のことを黒脛巾組(くろはばきぐみ)という。 なんでも、大阪夏の陣の前に、伊達政宗は、雑賀衆を配下に引き入れたそうだ。 大阪夏の陣と言えば、家康の大阪城攻略の話だ。 大阪城に入っていた、真田幸村が、真田丸を築き抵抗したが、淀君が家康に屈した。 その際、日本一の兵、真田兵と伊達が刃を交える訳だが、前日に既に、幸村は、伊達の片倉小十郎に家族を委ねていたという。 2、仙台藩重鎮世襲名片倉小十郎 片倉小十郎は世襲名である。初代は片

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          【考察】黒脛巾組の淵源【備忘録】

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          【考察】翡翠産地発見の謎【備忘録】

          1、翡翠産地の謎 ある時期を境に、縄文時代に流通していた、翡翠の加工品の産地がわからなくなった。 縄文時代に流通していた翡翠の生産地がわからなくなったというのは、大いなる意思の元で、隠蔽されたということだろう。 6世紀から7世紀あたりで、日本史を隠す必要が出て来たと推察する。 2、記紀の編纂者たち 翡翠生産地を隠したい理由としては、翡翠文化圏を知られたくなかったことが考えられる。翡翠の加工品が発見されているのは、主に東日本で、縄文時代からのクニの所在地と重なると推察す

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          【考察】翡翠産地発見の謎【備忘録】

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