愛と忘れたこととハルカミライ
わたしだけではないと思うが
何のために生まれてきたんだろうと、時折ふと考える事がある。
そこに明確な答えはない。
と言うより人それぞれ生まれた目的は違うはずだから
「これが答えだ」と普遍的な結論を出すことは無理だと思う。
ただ、わたしは忘れかけては思い出す。
そうだ、愛を表現したくて生まれてきたのだ。
と。
わたしにとっての「愛」をわたしなりに表現したくて
そのために生まれてきたにもかかわらず
表現の仕方をすっかり忘れてしまっているから
なんだかうまくいかない感に囚われてしまいがちだ。
誰かに向けた愛、家族への愛、好きな物事への愛、地球への愛、
恋愛の愛、自然への愛、生き物への愛、
あげればキリがないほど表現できる場は溢れているのに
表現の仕方を忘れているのが勿体なさ過ぎる。
根本を忘れているからだ。
一番最初に愛すべきモノ。愛されるはずのモノ。一番愛を欲しているモノ。
それは、わたし自身。
外にばかり愛を表現しようにも
内の愛が足りなければ外に出せないのに。
自分を愛する。本来は一番単純で一番大事なことのはずのそれを
一番忘れてしまうのだから
そりゃ色々行き詰まって当然だ。
教えられてきたことの真逆をやるくらいでちょうどいいんじゃないかな。
自分を愛することを思い出すのには。
家でも学校でも社会でも
「良い」とされてきた「優しさ」などは基本的に
自己犠牲的なものが多いと感じる。
他者の前に自分を愛そう。
その溢れた愛で、他者を愛そう。
まず自分の愛し方を知ろう。
自分の満たし方を知ろう。
誰も教えてくれないから
地道に探していくしかなかったけれど
それでも少しずつはなんとなく掴めてはきている。
気を抜くと元の自分の愛し方を知らないわたしに戻ってしまうが
「こっちじゃない」と言うのだけはわかるようになった。
どんな状態で生まれてきたって
そのままの自分を愛せたら
その人は幸せだ。
自分を愛し過ぎて損になることなんて一つもない。
自分を好きになり過ぎて困ることもない。
あ、自分を好きってなるとナルシスト的な感じに思われやすいのかな?
ナルシストは自分が好きとは違うと思うけど。。。
ナルシシズムって言うのは他者との比較ありきで
自分に自信がないが故の結果的行動と言える。
他者から何か(関心や称賛など)をもらうことで成り立つものだと思うので
わたしの思う自己愛とは全く違うが
そこを混同されがちなのかも知れないな。。。
どんな自分であれ、自分という存在そのものが好きだ。
そのままで良い。と言う感覚の自己愛。
きっと、生まれる前と生まれて間もない頃は持っていたであろう感覚。
今朝、ふっとそこを思い出せた感じがしたので
ここに文章を書いてみた。
こうやって書ける場があるのはありがたい。
思い出すきっかけをくれたのは
「ハルカミライ」と言うバンドの「to be continued」と言う曲。
そうだ、愛そう。
ふと、そう思った。
そう思えて、すごく幸せを感じられたことが
とても嬉しかった。
ありがとうハルカミライ。