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「凄い」の閾値が下がると自惚れる

 「頭でっかちになってるように思うの。あなたみたような人、何人も見てきたから。もっと自分を開いて出していかないと」と、入社して半年後に行われた人事部での新人面接で言われた。確かにそうだ、と感じつつも、希望を持って入社し臨床で結果を少しでも出そうと懸命に努力したつもりであったので、酷く心が打ちのめされた自分は押し黙っていた。
 「頭でっかち」「自分を出して」というフレーズで否定されると、それを払拭できるだけの度胸や力量、人格的リソースが私には欠けているように思われた。

 いろんな本を読んだり自分で考えたりする中で、「あ!これは世界の真理を捉えた!すごいぞ!」と眠気を吹き飛ばすほどの興奮を得ることがある。だが、人に話すと「まぁ、当たり前のことだよね」「…だから何?」とのレスポンスで我に返ることがよくある。
 あぁ、私は自分の不安や心細さを払拭し自分で自分を承認するためだけに、自分は大丈夫だという感覚を得られる世界の真理を分かった気になったり、自分がそのような人間になるに至った理由を社会的背景や遺伝的・生物学的・神経心理学的背景に全て求めて筋が通ると一気に肯定感を得られて躁状態になったりしているだけなんだなと気づき、絶望する。

 妙に高揚感があって躁的に自惚れているときは、不安や心細さが無意識に大きくなって、自己肯定の閾値が下がっているときだ。小さな鬱と躁を繰り返している。

 3年前に国家資格を取った。作業療法士の資格だ。基本的には医療保険や介護保険の範囲内で仕事をし、取った単位あたりの点数で儲けが決まる。施設の差はあれど、同じ職業であれば大抵の年収は同程度。同じ業界でさらに儲けを増やそうと思えば、管理職につくか保険外に出るかなど選択肢は少ない。しかし、国が職業を保障しているので、薄給だが少し節制すれば生活は安泰ではある。だが、複数人の家族が自由かつ少し裕福で、幸福に過ごせるだけの経済的豊かさを得るには、心もとない。

 最近、ラランドのYouTubeチャンネル「ララチューン」にハマっている。単純にこの2人の対話やボケ・ツッコミが面白いというお笑い要素でも好きなのだが、ニシダさんの存在が、将来の不安・自分に対する心細さを生み出す私の「みっともない」人格的リソースを私自身が受け止める代わりに引き受けてくれている感じがする。言い換えれば、彼の「社会的なダメさ加減」が私に安心感を生み出している。彼が笑いを取ったり、自分を攻めて凹んでもおかしくない状況でもなんだかんだ生きているのを見ると、私の中の「みっともなさ」が私の「生」それ自体を否定する材料でなくなる。

 不完全な人間の、愉快な一幕である。私含め人間なら皆、失敗を繰り返したりみっともない思いをしたり人に迷惑をかけたりするのである。

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