浮遊した自己
学問すれば着地できるのか…
「私は生きていて、思考し、目の前の事象に何か思いや感情を感じている」という実感が湧かないときがある。これを「浮遊した自己」と呼ぶことにする。放心状態に近い。他人をレッテルで括って見下すことで自分が優等な気がしたり、普遍性や抽象度の高い学問的知識で「人間」や「社会」、「世界」を分かった気になって生きた心地を得たりしてみても、精神の口渇は満たされない。
著者は医療従事者であるので、脳科学や人類学、宗教、文化論、社会学、進化生物学、広義の心理学など多岐にわたって学んできた。特に何の役に立つわけでもないのに、上記に加えて文学や物理・天文、映画など、教養的なものを興味の赴くまま調べたり考えたりする人間はそうそういない。それらを踏まえた上で「浮遊した自己」を着地させるべく思索を巡らせたが、一時の充足感と高揚感を得られるだけで、決して地に足が着くことはなかった。ただ「なんだかみっともない感」が心の周りを取り巻いていた。
祝祭性は私を救うか
先日、徳島で行われた藤井風アリーナツアーに参加した。私が撮影したものではないが、下記に同日のライブ映像を添付する。
私に足らないのは、「祝祭性」であるような気がしてきた。ライブを聴きながら、目の前の音楽やダンスのバイブスを、全く関係ない連想された思考が追い越さないようにどれほど注意を払ったか分からない。「あぁ、何も考えずに音に乗っていたい、踊っていたい」と何度思ったか知れない。
自分の感性が信じられない。何がどう転がろうとジリジリ確実に痛めつけられるような事態にならない限り、殆どのことは何となく耐えてきたので、「何でもいいから、相手の好きなように決めてくれないかな」と無意識に思ってしまう。他人から見ても自分から見ても、その姿は「頼りなさ」を醸し出す。
自分を許す強さ、少年の様な無邪気さや素直さ、幼児の様な無恥さが、私には羨ましい。
だが、私の様な「中間層」の人間は、このような精神状態で社会を生きていくにはキツい。無差別殺人や「生きた屍」の犯行に及ぶ様、人生背景は、「自分もそっち側だったかもしれない」と思わせる。
お前みたいなヤツは腐るほど居るんだよ
私の様な人間は腐るほど居る。自身の精神の中にいる「Higher self」をテーマに曲を作り続けている藤井風は、まさにZ世代の精神性の一つ先を指し示していると言っていいと思う。
殆どの人間は、夢や希望も抱いていないし、綺麗な動機づけで生きていないし、何となく生活のために仕事をしている。この「無意味さ」を解消したくて多々の学問に触れてきたが、解消される訳はない。意味を求める限り、どこまで行っても人間の生きている意味など無いからだ。
感情の発露や身体性を養うことも大事で、言葉と精神・身体の距離感の測定を見誤ると、虚無感がその黒い渦を禍々しく広げて待っている。
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