ゆらぎ
自分の心身のゆらぎが自分で許せてない、ということに気が付いた。
先週金曜日のナイトくんワークの産物だ。
そうしたら、ゆらぎに真っ向からやられてしまっていて、天候も手伝ってであろうが、ローだ。まさに低空すれすれ。落ちては、いないのだが。
甘んじている。
でも、長年の癖で、受け入れている、まではいっていない。
どこか、抵抗している自分がいる。
食べてごまかそうとする、長年の癖が出ている。
不安を感じたくないんだろう。ぐわああと、食べたくなる。
おっと、危険信号。この代償行為に、give in, なされるがままにされる、のではなくて、食べたくなる一つ前の、不安、に寄り添いたいところ。
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安定した労働力を提供できるか否か、を基準にした、評価のようなものをする場面に、ちょうど出くわしている。
もっとも人は安定していなくて、そこでのマイナスと見えるできごとが起きたときに、気持ちに凹みをつくって、そのあとのパフォーマンスに影響する、なんてことがある。
「できごとを前向きに受け止めて、気持ちを切り替えられるように支援していけると良いだろう」
みたいなことを書きかけて、ふとタイプする手を止める。
なんで前向きでなきゃいけないんだろうか。落ち込むこと、ゆらぐことは非、なのか。
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そりゃあ、均一の製品を作るモダンタイムズのような工場を想定していたら、ゆらぎも独創性も否定されるべき対象、なのだろうけれど、
2024年の今、そんな画一的で正確性を求める作業は、AIやら機械やらがぜんぶ、綺麗にかっさらっていってくれることが、目に見えてる。
じゃあ、他の人と気持ちよく暮らすために、人と協調するような能力が生得的に強い子どもが産まれてきているか、というと、人類そうではない。
独創的にある領域への興味を悉く掘り下げるような、局所的な発達がデフォルトの子が、増えているみたいだ。農薬や添加物の影響、だけじゃなく、時代の要請のように感じる。
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僕の揺らぎを、ゆらぎのままで、受け止められたら。
そんな淵のところに、心の奥をこわごわ覗きながら、立っている。