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霞柱の季節|相貌失認と、あの雲の名前

脳梁っていうのが、右脳と左脳の間にあって、両者を繋げてくれていると聞く。

右脳は芸術脳、感性や潜在意識をつかさどる方。

左脳は理性脳、論理や顕在意識をつかさどる方。

両者の往来が活発なときは、言葉はするする出て、感情や思いも真っ直ぐに表現することができて、しかも当意即妙、すぐ出てくるから、とても気持ちが良く過ごせる。

逆に、両者の行き来に滞りのあるときがある。

――まるで、霞がかかったかのように、単語はそこに居る・・・・・のは分かるのに、その全貌が水面に上がって形が意識に知覚されるまでに途方もない時間がかかるか、もしくは、水中に留まったまま、姿を現すことがない。

動詞もそうだが、人名や固有名詞が、異空間のスポンジに染み込んでしまったかのように、出て来なくなり、申し訳ない思いをすることも、多くなってくる。「探し方が悪いのかな?」と考えてみたり、「何か、わたしはおかしくなってしまったんじゃないだろうか?」と若干憂えたりもする。

でも、しょうがない。なぜか、自分にはこういう時期があるらしい。

「鬼滅の刃」の霞柱の…ええと、名前、何だっけ。

・・・時任(…ここでググる。)無一郎くんを見ていて、辛い体験の後、いろいろな記憶を思い出すことが叶わなくて、ああ、と思っている。

「ああ、あの雲の名前…何だっけ?」

目の前の人達に関心を向けようにも、どのみち記憶に残して適切に引き出すことが叶わないから、彼は空を見上げて、でもやっぱり思い出すことが叶わない。そこに確かに記憶は存在するのに、それが浮上してこない。

――その感じが、周期的に回ってくる自分のそれと重なった。

冬と寒さと日照時間のせいかなぁ。

お天道様の光、浴びよう。

この頃、イベントやお祭りなどでたくさんの人に出会わせていただくのだけれど、こんな感じなので、お名前、何度も聞くと思います。

たくさんの人の椅子を心の中に置いて、かけがえのない皆さん一人ひとりの好きなことやライフワーク、感じ、そしてお名前を憶えていて、するすると引き出して必要な人やものごとにつなげられたらいいのになぁ、と切望する心があるのですが、わたしの今の脳にとってはそれは、綱渡りのようにもろいことのよう。

近い未来に、脳梁という橋が心の内と外を、広く盤石なアーチでつなぐ人生の季節がやってくることを雨乞いする砂漠の民のように祈りながら、わたしは今の季節を、自分の手と局所的な脳ができることを淡々とやりながら、どうにか過ごして行きたいと思う。


●霞んだり、一瞬、晴れたり。


●特別支援教育を勉強していて、相貌失認、という人の顔が覚えられない先天的な脳特性がある、というのを知って、ホッとした。普通なんてものは、ないんじゃな。


●継次処理(聴覚思考)優位のルイス・キャロルと、同時処理(映像思考)優位のガウディを例に、人の認知の多様性を論じた本。おススメ!


●『いのちのじかんのまもりびと』翻訳も、もう少し。


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