運命の人は、あなたのなかに
”うつくしくて優しいお姫様は、王子様と幸せに暮らしました”
的な幸福論は、思いのほか市民権を得て流通していて、じぶんもそいつにやられた一人で、まだ残り香のようなものにほだされている部分があるな、とふと思った。
お姫様の条件を、人が喜ぶように振る舞い、装う、というとこに照準を定めてしまうと、おかしなことになる。「お姫様」の見た目やアクションは、周りの人を魅了するけれど、それが「万人受けするお姫様」像を演じたからじゃない、というところがミソだと思う。その人らしさを体現していった結果、その在り方が人を魅了するに至った――簡単なことなんだけど、シンデレラコンプレックス的な、主導権があんまり女性側にない物語は、このことを勘違いさせるような気が、ちょっと、する。
巷の流行歌を聞いていても、そのことを勘違いしやすい。ずっと君と逢いたかった、君といれば天国、君なしでは生きられない、的な歌詞を聞いてると、運命の相手がだれか自分とは別に居て、その人との恋を達成することがあたかも至上命題のような、気がしてくる。(いえ、そう信じて疑わなかった若かりし頃を過ごしたのはわたしです…w)
でもねぇ、違うんだろなぁ…!
自分の中の恋を成就させるのが、一番の、幸せなんじゃろうなぁ…!
わたしたち一人ひとりがもっている、女性性(感性・身体性)と男性性(思考/マインド・理性)の関係を紡ぐ。現代社会で突っ走りがちな男性性をどうどう、として、女性性の声を拾い上げて、実現していく。
これが食べたい、排泄したい、身体が冷えてるから温めてほしい、ネムイ…今スグネタイ…!、あの花に近づいて匂いを嗅ぎたい、海で足を浸したい、川に頭から浸かりたい、叶うことならずっと星を観ていたい、長時間通学をして勉強して卒業資格を取って何のためになるんだろう?、人間らしい仕事がしたい、旅をやめたくない…などなど。
小さな心の、身体の声を実現して、やがては大枠もその中で生きてゆけるように、自分の歩く線路は、自分で創る。そういう在り方をしてたら、その延長に、同じような道を創りたい人が、物理的なパートナーとして現れることも、あるんだろうな。(実験中)だからあくまで、自分の中の恋愛関係が先。自分が誰なのかも分からないのに、どうして自分に合う他人が理解るというのだろう?
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だからね、巷の歌謡曲を、一人の人の中の男性と女性、と思って聞くと、案外面白い。
「亜麻色の髪の乙女」は自分の独特の在り方を全肯定してくれるパートナーが若くして見つかって、丘の下で待っててくれるから、風のように丘を下るのだし、
「決戦は金曜日」は要求の多い女性性を現実的な男性性が実現するのにめっちゃ時間がかかっていて、もう週末だけど、これ、乗り越えちゃる、と聞こえてくる――
――この唄聞くと、いつも泣けてくるのは、わたしだけでしょうか?
*
感性が花開いて、それを理性が盤石な手をもってして(!)受け止めて現実化しているスペースにお邪魔し、その空間に「ほぉぉ……♡」となった昨日。
そんな人という一輪の花どうしが手を繋ぎ、この世に顕れていったら、フラワーオブライフのように、完結した形が何乗にもなって広がって行くのだろうな。天国は、近いのじゃ🌼🌸💠
間もなく冬は極に至り、万物は春へ歩み出す。
もうちょっとじゃ、もうちょっと
自分を励ましながら、淡々と目の前のことをこなすのじゃ。
令和3年12月19日 記