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いのちのじかんをかんがえる。

ここ十日間ほど、引っ越しの成すがまま
モノに追い立てられるような時を過ごしてきて、
ようやくそれが落とし所を見出している。

なすべきこと、成さねばならず
その中で心にはどこか置いてきぼりをくらわせている
自覚はあっても、どうしようもない
そういう時期を過ごした。

❇︎

さて、『いのちのじかんのまもりびと』という邦題で
英書『TIME WARRIOR』を訳している。
自分がいのちのじかんのまもりびとで居るかどうか
一章一章、訳しながら点検するような気持ちで訳出を進めている。

――はずだった、のに、こういう状況に際して
「一日一章」とか目標ばかりが先行して
それは三次元に生きてる以上、決して不要なことではないのだけれど、
何かが片手落ちる。

――それはきっと、祈りだ。

日常を物質的なものをこなすことで固めてしまうと、
そこに天からの恵みの水のようなものが染み入り、涵養されるような隙間
なくなってしまうのだ。

言い換えるとその隙間というのは、柔軟性であり、可塑性であり、
誰かが本来のその人でいられる命の水――アムリタのようなものなのだ。

そんなことを、本の表紙にさせていただくことになった宮崎在住の作家
児玉美音子さんの絵画『檸檬』をぼーっと眺めながら想いながら、いつもそうであるように涙が出た朝だった。

❇︎

翻って、系統発生が個体発生をなぞるように、
わたしに今回起こっている「祈り」の欠如の体験は
近代史において人類が、日本人が鮮烈に経験していることでもある。

"日常を物質的なものをこなすことで固めてしまうと、
そこに天からの恵みの水のようなものが染み入り、涵養されるような隙間が
なくなってしまう”

明治維新、幾多の戦争、そして戦後の精神的な欧米化によって
まさにそういう隙間のない、
絶え間なく零壱零壱が連打されるコンピューターのような時間

ミヒャエル・エンデが『モモ』の中で
時間泥棒」として描いたような何らかの力によって
有無を言わさず流されてきたのではないだろうか。

そして、そういうものはこれからもしばらく、勢力を保つのだろう。
一方で、web等の通信は空間的な制約を超え、
人の意識の深い所をつなげることを飛躍的に可能にした。

そんな中で、あなたは
どのようにあなたの「いのちのじかん」を過ごしますか。


モノに追い立てられる時間を過ごすことを自分に許す

のでしょうか?

それとも、

いのちを見つめるゆっくりとした静かな時間を編む

のでしょうか。


そういうことが、わたしたち一人ひとりに、
問われている今である、そう思います。

『いのちのじかんのまもりびと』日本語版が
この問いを自分なりに立ててゆくヒントとなりますように。

今日もひたひたと訳し、その文章を理解するために
行を重ねてゆきます。祈りをこめて。


令和3年11月20日 
知未


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◆『いのちのじかんのまもりびと』邦訳 note版◆
*全訳と紙媒体は令和4年3月に発行予定です。もうしばらくお待ちください。
 ↓ ↓ 


◆原書『TIME WARRIOR: How to defeat procrastination, people-pleasing, self-doubt, over-commitment, broken promises and chaos』英語版◆

*kindle も、聴覚優位に嬉しいaudible もあります…!耳で聞いて文字で見るのは、英語学習者(中級・高校英語~)にも、強くお勧めします♪





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