"To serve for purpose" or "to serve for fear"(恐れという感情と,付き合う)
他人さまの目,というのは日本人に生まれ育って気にしない方が珍しいんじゃないだろうか?
他人さまにめいわくをかけないように,他人さまに変に思われないように,慣習に従順にはみ出ないよう躾けられてきた,そういう人が多いのではないだろうか。
それは幼少期の体験とあいまって,そのルールを踏襲しないこと,つまり他人さまの気に障るようなことをすることへの恐れとして,自分の中に色濃く残っている。だから、そのようなことをしでかしたんじゃないか,と少しでも脳が判断すると,脳内はやかましいくらいに一人反省会の様相を呈する。
「こうしていればこのような事態は避けられたのではないか」「なぜこのようなことをするに至ったのか」「これからこの事態を好転させる術はないものか」取返しの付かない,かつ他人さまの感情や理解という,自分ではどうしようもないものに対するこの滑稽なまでのこだわりは,防衛反応さながらに自己免疫的に自分を苦しめる。
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「何か信念に基づいて行動を起こそう」としたときに,関係する全ての人から賛同を得られたり,ましてや同じ考えに基づいてそこに向かって言動してもらえたりすることは類い稀な,と形容して良いくらいあり得ないことだ。自然,反対意見もあり風あたりも強くなり,ということが往々にしてあり得る。
そのとき,自分は何に己を奉ずるのか,それを考えるようになった。
「恐れ」に仕えてこの身と心を差し出すのか,目的に基づいて恐れをグッと堪え,踏みとどまるのか。以前なら恐れは私をいとも容易く陥落させ,私はそこに留まり続けたから,人間として若干の進歩かもしれないし,こんなのまだまだ入口に過ぎないのかもしれない。
独りよがりの信念になっては目も当てられないので,他者の意見や立場は自分のそれらが自然と構築する色眼鏡に自覚的に居たいと思っているけれども,いずれにせよ,恐れとその防衛心にじぶんを明け渡し続ける,そのような日々にはさらば,別れを告げたく在るこの頃である。