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立川流日暮里寄席(1月 4日(月))
「道灌」縄四楼(開口一番)
「一人相撲」吉笑
「動物園」→「寿獅子」志ら玉
「親子酒」志ら乃
<中入り>
「唖の釣り」ぜん馬
「富久」里う馬
席間を空けて50席に絞っての興行。
万全の対策をして臨む決死隊のような客が殆どだが、万事無頓着なバンザイ突撃みたいな客もチラホラ。
演者少な目で持ち時間長め、それをどう使うかは夫々。
脇の下くすぐっても笑わせる的な押し付けがましさを忌避し、気負わずにみられる肩の凝らないもの、知らず知らず引き込まれて聴くものに、嗜好が寄って行っていることを改めて感じた。
「道灌」はまぁ何と言うか、前座らしく浚えば良いのになぁと言う感じ。
基礎が出来ていないのに色気付いて目先の笑いを取りに行く愚かさ。
前座の「芸」を腐しても仕方がないので出来はどうこう言わないが、料簡が悪い。
「一人相撲」は疑似古典的な新作、構成は巧く、狙った笑いどころとお客さんのウケかたのシンクロ率も高いように見えた。
サゲが笑いを取りに行くものではなく、「話の終わりを『終わりですよ』と示すもの」として「あー」と言う反応だったのも狙い通りだったのではないか。
談笑門下らしい一席。
「親子酒」は談志の悪い所だけ戯画的に似ていて、途中から醒めてしまった。
間に挟まった「動物園」。 こういう実にどうでもいい、毒にも薬にもならず、教訓もお涙頂戴も無く、爆笑も無い軽い噺と、余芸としての獅子舞。
有意義な息抜き、上質な暇つぶし。 これが寄席の良さだと私は思う。
全員が全力でウケに行くホール落語みたいなのが嫌いなのもこのあたりから。
中入りを挟んで「唖の釣り」。
声が掠れて聞き取りにくくはありつつ、自然に引き込まれ、自動的に脳内補正される。
釣りのマクラから、はて何をやるだろう「あれじゃないと良いな」など考えていたら「あれ」ではなかったので良かった。
しみじみ聴く。
降りてはけた途端にそそくさと出ていく客が幾人か。
好き嫌いもあろうし、寄席は出入り自由だからそれもアリだとは思うが、示し合わせて出て行くようなのは野暮だと思う。
例によって長いマクラは宝くじの話。 正直ダレるのだけれど、腕はあるので話に入るときっちり聴かせる。
宝くじ→富の噺となると、あれかな、これかな、と考えていたら「年明けちゃいましたが、暮れの噺を」と「富久」。
「富久」もあまり好きな話ではなく、久蔵の酔っ払い描写をクドくやられると気が滅入る(先代可楽の録音とか)のだけれど、そのあたりはあっさりと。
程が良い。
マクラでは帰りたくなるのだけれど、噺そのものはもっと聞いていたくなる。
一部例外はありつつ、談幸・志の輔が境目で、面倒臭いことを言い出す前の談志をお手本として育った世代の、寄席育ちの師匠連の噺はしっくりくる。
(2021.01.04 記)