辻潤全集未収録作品
現在、辻潤の周辺にいた或る作家の伝記研究をしている。その過程で、辻潤の全集(五月書房版)に収録されていないと思われる作品も発見したため、ここに掲げておく。ひょっとすると未発掘(?)のものもあるかもしれないが、今のところ辻潤に関するあらゆる文献を確認する余裕はないため、とりあえず「全集未収録」ということにしておく。発掘次第随時更新予定である。
現在研究している作家と辻潤の関係についても調査しているため、いずれ発表できればと考えている。
(西村賢太に関しては、「瘡瘢旅行」で岐阜まで買いに行った雑誌の正体について、辻潤「もっと光を!」の備考で触れました)
■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪
「打てば響く 1931年問答録」(アンケート)
『新青年』12(1)、昭和六(1931)年一月発行
備考:十個の質問に対する回答。辻潤らしいのは
①「あなたが生まれ替ったら(どうなさいます?)」➡「今迄にまだ一度もそんなことを空想してみたことはありません、人生は一度で懲りこりです。その上前世の意識でも持ち合していたとすればなお更耐(たま)らないことだと思います。」
②「あなたはどんな青年(男女)が御好きですか?」➡「誠実で快活な人が好きです。」
③「映画があなたに与えたものは?」➡「若干の好奇心の満足、生きる為にはあんなことまでしなければならないのか──と云うようなこと。」
⑤「あなたの最後の日が知れていたら(どうなさいます?)」➡「なるべくそれを忘却することに努めます。」
⑦「あなたの青春に最も影響を与えた書物(又は絵画)は?」➡「内村鑑三氏の著書。」
⑧「日本で一番魅力的な言葉は?」➡「思いあたりません。」
⑨「日本が現在第一にやらねばならぬことは?」➡「人口をへらすことと農村を救済すること。」
⑩「何が無くなったら一番御困りですか?」➡「水。」
など。他にも多数の作家が回答している。
「文壇酒客放談」(座談会@新宿二丁目「よ太」)+『食道楽』における辻潤の作品
『食道楽』4巻2号、昭和五(1930)年二月発行
☞味の素食の文化センター等に所蔵あり。
味の素食の文化センターホームページ(https://www.syokubunka.or.jp/search/?q=%E8%BE%BB%E6%BD%A4)
備考:豪華なメンバーが揃っているが、通読した感じだと辻潤がかなりご機嫌で、発言回数も最も多いようだ。酒をテーマに様々な話題が出てくるが、個人的に興味深かったのは辻潤の天草やパリでの出来事、坂本紅蓮洞の最期、藤澤清造が酒を覚えた機縁など。
また、「味の素食の文化センター」ホームページ内で検索をしたところ、4巻6号に「浅草漫語」(1930年6月)、第三期5巻2号(1940年2月)に「天狗の麦飯」が寄稿されていることが分かった。味の素食の文化センターに所蔵されているものを確認したところ、これらもおそらく全集未収録であることがわかった。
「きやぷりちこ」/「模倣といふやつが一番くだらない」(アンケート)
勝田香月『詩に就いて語る』交蘭社、大正十五(1926)年十月発行
☞NDLDCログインで閲覧可能(https://dl.ndl.go.jp/pid/1019692/1/99)
備考:「ダダイズムの詩」の例として「きゃぷりちこ」がおそらく全文引用されている。この詩は五月書房版全集第四巻に収録されているが、なぜか『詩に就いて語る』に引かれているものは全集収録のものよりも長く、こちらが完全版であると思われる。アンケートの題名は「今後詩壇はどう動いて行くか」で、筆者の雑誌『自由詩人』で実施されたものであるとのこと。巻末の「現代日本詩人録」に辻潤も載っており、これによるとこの時の住所は府下荏原郡大岡山一二七。
「選者より」
『英語文学 THE LAMP』5巻5-8,10号 大正十(1921)年
☞早稲田大学図書館編『マイクロフィッシュ版精選近代文芸雑誌集』(復刻版)
備考:前回の更新の後、一時期『英語文学』で辻潤が選者をやっていたことを思い出した。該当号には辻潤による「選者より」という選評と解説が掲載されている。いかにも選者然とした丁寧で優しい解説になっている。『英語文学』にはいくつか辻潤の作品が掲載されており、それらは全集に収録されているが、この「選者より」は作品ではないためか収録されていない。
選者に着任した5号では、「本号から、僕が生田(長江)先生に代って選者たる光栄を担うことになりました。なにしろ今迄少しもこういう経験がないので選のやり方などもかなり偏したものになりはしないかと内々気づかっている次第です。けれども僕は万事自分流儀○り他のことはなんにも出来ない性分ですから、一切その調子でやるつもりです。・・・」(○は少なくとも私が確認したマイクロフィルムでは判読不能)と書いたあと、自身の翻訳観を語っている。「僕は言葉としては自分の日常用いている現在の日本語に一番重きを置きます。散文は勿論、詩を訳す場合でも、なるべく自分の使っている生きた言葉を用いたいと心がけています。それが如何に生硬未熟であっても、致し方がありません、唯だ各自が自分の力の範囲でそれを出来るだけ洗練してゆくより方法はありません。少し極端な云い方かも知れませんが、自分の毎日使っている言葉が駄目だと云うなら、やがては自分の毎日の生活を否定しなければならないようなことになります。ですから、僕は如何にそれが変でも、妙でも、クラシックを訳す場合にも出来るだけ現代語を使いたいと思います。従って詩(その新旧を論ぜ)を訳す時でも、同じ態度をとりたいと思います。」
残念なことに、『英語文学』はこの5巻をもって終刊したようだ。
「断想」
水月哲哉編『星の巣 第一輯』星の巣社,昭和八(1933)年九月発行
☞NDLDCログインで閲覧可能 (https://dl.ndl.go.jp/pid/1214196/1/37,)
表紙は「稀覯本の世界」で閲覧可能(https://kikoubon.com/hoshinosu.html)
備考:少なくとも五月書房版全集には同名の作品は収録されていないようだが、別名で収録されている可能性は否定できない。一応全集に収録された散文作品は全て読んでいるはずなんだが・・・。
同輯には他に横井弘三、織田一磨、清水登之、野村愛正、小比賀虎雄、椎名剛美、左甚水、水月哲哉、近森岩太、福田正夫、正富汪洋、白鳥省吾、安成二郎、西谷勢之助、南江二郎、赤松月船、永井叔、吉澤獨陽、阿野赤鳥、小川未明、新居格、井澤弘、大倉桃郎、谷亮輔、槇本楠郎、岡田賤子、岡下一郎、高見範雄、山脇〈莞の右足にム〉太郎、谷口正らの作品が収録されている。結構豪華な?メンバーだ。詩、随筆、童話、小説等が雑然と収録されている。
ちなみにこの本はウェブサイト「稀覯本の世界」の「幻の本・珍本」ページを見ていた時に発見した。このサイトに載っている本は、意外とNDLデジタルコレクションにもあったりする。「稀覯本の世界」管理人氏も、NDLも、偉大である。
「夢で聽いたデハートメントストアの話」+高洲豊水について
高洲豊水編『東京商品界 第一巻』大正十一(1922)年四月発行
☞NDLDCでログイン無しで閲覧可能 (https://dl.ndl.go.jp/pid/914272/1/24)
備考:豊水高洲幹一については、高橋新吉がいくつかのプロフィールを伝えている。『ダガバジジンギヂ物語』(147-151頁)によると、この人物は山口県出身で辻の友人だった。新吉は「川崎の辻潤のところ」で高洲に会った。高洲は「商品界」という雑誌を出していた。彼には「政治ゴロのようなところ」があり、「東京都内の有名商店を、名刺代りのように、雑誌にのせて、その雑誌を受領証にして、金をゆすって、生計を立てている人物」だった。「高州の家は、浅草の向柳原町にあった。私は高州の家に住み込んで、雑誌の仕事を手伝うことになった。新潟県人の妻がいた。子供がなくて細君の妹の子を貰って育てていた。女の子だったが、十歳くらいだった」。「高州は、喧嘩が強くて、若い時は、上野の花見の折などに、アバレまくったと、辻潤のおふくろが言ったが、ステッキをついて、毎日家を出ていくのであった。或時、浅草の山谷あたりにあった製本屋へ、雑誌をとりに、私は行ったことがある。うす暗い土間の、貧弱な製本屋であった。商店の名前や商品の広告文などは、紙型があって、毎月、同じようなうすい雑誌であった。南洋の土人の女の写真を巻頭に、印刷したことがあったが、高州が、どこから手に入れたものか、それは、ナマメカシイ美人の写真だった」。その他、高洲家に居候していた新吉のところへ当時『婦人公論』記者だった諏訪三郎(半沢成二)が訪ねて来て原稿を依頼されたこと(「これが原稿料の出る雑誌から、原稿の依頼を受けた私の最初の経験」)、新吉が川崎の辻のところから山内村(当時佐藤春夫が住んでいて「田園の憂鬱」を書いた)へ歩いて行って数日止まっていたとき、「辻潤か誰か」が新吉を迎えに来て「高州が病気で仆れたので、看病のために帰ってくれ」と言われたこと、高洲は家の近所の病院に入院していて、そこへ伊藤弥太という油絵描がよく遊びに来ていたこと(院長が伊藤の絵を買っていたためらしい)、高洲が「ジャクソン氏の癲癇」という病で死んだこと(「高州は夜中に起き上って、彼の陰茎から血が出ていたとは、細君の言うところだが、細君は、バケツに水を汲んで、高州に打つかけたという」)等が書かれている。
『禅に遊ぶ』(118-119頁)にも高洲についていくつかのことが書いてあり、こちらからおおよその年代を推測できる。新吉は半年ほど栗橋で自炊生活をしていたことがあり、その頃『まくはうり詩集』『生蝕記』をガリ版で刷って辻潤や佐藤春夫に配っていた。それが「原敬が、東京駅頭で、暗殺されたりした頃」(1921年11月4日)だった。その後に川崎の辻潤のところで高洲と出会い、同居して雑誌の手伝いをすることになったという。「高洲という人は、まもなく、「ザックソン氏の癲癇」という病名で、或病院で死んだが、平戸廉吉という未来派の詩人が、一、二年後に肺病で死んでいる。「シンだ廉吉」という『ダダイスト新吉の詩』の中の一文は、廉吉としてあるけれど、多分に高洲の事を書いたものである」。それは渋谷の廉吉の家へ見舞に行ったら面会謝絶で、臨終に立ち会えなかったからだという。
国会図書館には、高洲豊水の著として他に『東京商品 第一輯』(1918.8)、『日本優良商品文庫』(1921.9)がある(新吉の記述を読む限りこれ以外にもありそうだ)。廉吉の死は「1922年7月20日」(『ダガバジジンギヂ物語』)とのことで、『日本優良商品文庫』は1921年9月15日印刷なので、高洲の死はこれ以降~廉吉の死の間のことだと考えられる(先の記述をふまえると新吉が高洲と出会ったのもこれ以降か)。高橋幹一名義では『京浜イロハ地理』(1911.11)、『京浜イロハ地図』(1912.12)、『京浜商用地図』(1913.8)等が収蔵されている。
さらに、大泉黒石も高洲について語っている。「諸行無常」(初出『雄弁』11巻9号、1920年。『天女の幻』盛陽堂書店、1931年 にも収録)によると、彼は労働者時代の一時期に「和泉橋際の平和活版印刷所(間もなく佐久間町へ引越して、長生堂と云う名前に変わって了ったが)」で働いていたという。「長生堂」ではないが、「長正堂書店」ならば確かに神田区佐久間町四丁目六番地に実在したので、この書店が移転する前の時期に職工をしていたのだろう(山野芋助『化の皮』長正堂書店、1919年、奥付。なお移転前の「和泉橋際の平和活版印刷所」については未詳)。この印刷所には「商品之世界」社の「赤須丙十郎」が校正に来ていたというが、これは豊水高洲幹一をモデルにしていると考えられる。ある時「赤須」(≒高洲)の 家に遊びに行くと、広告の原稿を書いていた「平辻潤平」(≒辻潤)がおり、これが彼との初会見で、「西暦1917年6月23日午後5時」のことであったというが、その真偽は不明である。 あるゴシップ記事によると、「この雑誌の記者の仕事というのは、一日の中、二三時間出社 して、二ツ三ツの広告文案を作ればよい」というようなもので、「文名大いに挙がらざる時 代の辻潤氏、宮地嘉六氏、大泉黒石氏などが、その雑誌に関係していたとのこと」とされている(「兎の耳と梟の目」『中央文学』5巻5号、1921年、50頁)。黒石もまた「はれきん先生」において、辻潤や宮嶋資夫と共に広告の原稿を書いていたと明かしている(『シャリヴァリ』1巻3号、無門社、1934年、7頁)。曰く、「ね君・・・宮島蓬州和尚やnoctivagant辻潤などの一味と、原稿一枚二十銭くらいで、広告文をかきなぐっていた雑誌が昔あったよ。剃刀の広告文が俺に廻って来たから、この剃刀が、いかに切れるかという嘘をつくために・・・これを桐箱に入れて蔵って置くと、自然に箱が切裂けて、カミソリが飛出す危険があるから、鉄製の函に入れておく必要がある・・・なんて意味のホラを吹いた。チトこれは浪漫的だったカナ、とは思ったが、それで売出したんだからね。」
辻潤の作品が掲載された『東京商品界 第一巻』には「文芸欄」があり、辻の他に例の伊藤弥太「春信」、田中正春「新劇と歌舞伎俳優」、KS生「歌舞伎芝居の舞台的効果」、無署名「平博の唄」が掲載されている。続巻等があれば、そこに辻潤や黒石らの作品が載っていた可能性もある。なお黒石の労働者時代は基本的に1916年初頭から9月頃までであると考えられるが、その時期に豊水が関わった広告雑誌はNDLには所蔵されていないようだ。
「もっと光を!」+西村賢太「瘡瘢旅行」について
東京電気株式会社『マツダ新報』18巻5号昭和六(1931)年五月発行
☞NDLDCログインで閲覧可能。
▶なんとなく読んだことがある気がして調べ直したら、『癡人の独語』に入っていた。しかし、①文章のタイトルと著者名が辻潤による手書きであること(他の筆者のものではそれぞれ筆跡が違うため、本人が書いていると思われる)、②西村賢太と『マツダ新報』について言及した文章は見当たらないため、とりあえず残しておく。
(https://dl.ndl.go.jp/pid/1583064/1/20)
備考:西村賢太「瘡瘢旅行」で、貫多は秋恵を連れてはるばる岐阜の古書店まで雑誌を買いに行ったが(Youtubeにあがっていたいずれかの対談?でこれはおおむね事実を基にしていると言っていた)、それは『マツダ新報』のことだと思われる。これは東芝の前身の東京電気株式が発行していた雑誌である。たまたま大泉黒石の作品が数点『マツダ新報』に掲載されていたことを知っていたため、ピンと来たのであった。おそらく国立国会図書館には全巻が収蔵されており、NDLデジタルコレクションで閲覧できる(ただし会員登録が必要)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?