【連載小説】パラダイス・シフト_2
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「あれは役立たずだった」
そう言って、権藤部長は大きな息を吐き出した。真っ白い煙がもわっと広がり、視界が悪くなる。
それがあまり意味をなさないとわかっているが、数秒息を止める。「……あの子ですか」
一週間前に、たったの二週間でやめた新入社員のことだ。ゴールデンウィークまで持たなかったのは史上最短記録だったらしく、同期にも上司にも、おおいに同情された。
というのも、おれが指導役だったからだ。
三年前におれを指導してくれたのが、権藤部長。そういう関係だ。
「カジが悪かったとは、思っていない」
「実は、おれもそう思っていますよ。権藤さんほど厳しくもしてないですし」
権藤部長は笑ったついでに煙を吐き出し、そのままむせ込んだ。大丈夫ですか、とは言わないと決めている。
「だがな、考えてみれば、研修期間に辞めるのは賢明かもしれない。引き返す最後のチャンスだからな」
「引き返す最後のチャンス」
権藤部長の言わんとすることはわかる。研修期間には嫌というほど、社風を叩き込まれる。研修を乗り越えたとしても、風は吹きやまない。むしろ強くなる一方で、向かい風に逆らうことはできない。
できることは、ただひとつ。そうだよな、カジカジ、となぜか工藤の声が頭に響く。僕はこれに出会って、本当に、人生が360°大きく変わったんだ。
人生を180°変える。そうすれば、向かい風は追い風に変わっている。
「アーレア・ヤクタ・エスト」
あれは役立たずだった、そう聞こえたが、端々が違う。
「あれは……なんて言いました?」
「賽は投げられた、と言ったんだ」
「賽は投げられた」
「仕事の……いや、世界の摂理だ。自分で選んだような気がするだけで、実際は選ばれている」
考えてみれば、就職活動がまさにそうだった。エントリーする業種を選ぶのは自分でも、根底にあるのは「選ばれる側」。そうして就職した、このITベンチャーでも、「配属」という形で選ばれた。もちろん希望は出した。希望どおりにもなった。だが、それはおれが選んだことにはならない。
コロン、という感触が左手に伝わる。おれはずっと、スラックスの左ポケットに入れたサイコロをこねくり回している。ツボ押しのようなものなのかもしれない。それを触り続けているだけでも、ずいぶん気が楽になる。
「あれ、カジさん、タバコ吸うんでしたっけ?」
言うが早いか、喫煙スペースに新たな火種が灯った。他部署の後輩だが、いかんせん小さな会社だから親交はある。
親交があっても、名前を思い出せないこともある。「いや、吸わないんだけどさ」と言いながら息を止める。
こういうとき、権藤さんは助け舟を出してくれる。
「磯貝、最近はどうだ?」
そうだ、磯貝だった。
「ボチボチっすね。『梶野の乱』の煽りは、けっこう受けてますよ」
一週間前に、たったの二週間でやめた新入社員のことだ。同期にも上司にもおおいに同情されたが、二年目、三年目の後輩には、こうして揶揄される始末だ。
まずいな、とおれは思った。堪忍袋の緒が切れる音が聞こえたからだ。コップ一杯の水を溢れさせるのは、いつだって最後の一滴だ。
「おい、磯貝」という声が、喫煙スペースに響き渡る。慌てて自分の口もとを抑えるが、それはなんの意味もなさない。
なぜか。怒っているのは、権藤部長だからだ。
「プライベートで仲良くやるのは構わねえが、仕事のことで先輩をからかうのは、どういう神経してるんだ? てめえは、いつからそんなに偉そうな口を利けるようになったんだ、って聞いてんだよ」
磯貝は目をぱちくりさせて、おれのほうを見た。やめろ、見ないでくれ。権藤部長と違って、おれは助け舟を出せない。
正直なところ、おれ自身が「梶野の乱」などと揶揄されることは、露ほども興味ない。腹を立てることも、目くじらを立てることもない。泥だらけで帰ってきた子どもは、案外楽しくやっていることもある。
ところが、その子どもを見て、敵討ちと言わんばかりに憤怒の炎を燃やす親もいる。それが、権藤さんというわけだ。
権藤さんがおれに対して親心的な感情を抱いていることは、実はもう一つの火種に起因する結果でもある。
カジさん、と消え入りそうな声で磯貝が呼んでいる。権藤さんの姿は消えていた。「ごめんなさい。俺、そんな馬鹿にするつもりはなくて」
「いや、いいんだ。おれは気にしていない。おれは、な」
三年前、おれと一緒に権藤さんの指導を受けていた同期は、もういない。ゴールデンウィーク明けに、急に連絡がとれなくなった。それから約一年、社内を席捲したフレーズがある。それが、「権藤の乱」だった。
磯貝をはじめ、おれより後に入った社員たちは知るよしもない。知るよしもないが、そういう背景がある。
背景を知っていれば、磯貝たちは「梶野の乱」なる言葉を選ばなかっただろう。いや、それは既に選ばれた言葉だったのかもしれない。
そういえば、工藤がこんなことを言っていた。半ば強引に、サイコロを受け取ったあとのことだ。
「カジカジ、サイコロで1の目が出る確率はわかるかい?」
「6分の1だろ。小学生でもわかる」
「まあな。じゃあ、自分が選んだ好きな目が出る確率は?」
「何が違うんだ? それも6分の1だ」
と、思うだろ、と工藤は笑った。「サイコロの出目はコントロールできる。賽は投げられるんじゃない。投げるのは……」
――カジカジ、君だよ。
「なんだ、イカサマか?」
「ちょっと違う。もし気になるんだったら、教えてあげるよ。それを、次に会う口実にさせてくれないか」
出来の悪いナンパみたいな手口に引っかかり、おれは今日、工藤に会うことになっている。3の目が出たのだから仕方ない。
もっとも、「会わない目」は6だけだったが。
(つづく)