【連載小説】パラダイス・シフト_1
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世の中には2種類の人間がいる。
ここぞというときにサイコロを振れる人間と、振れない人間だ。いや、できるできないの次元じゃなく、振るか、振らないか、と言ったほうが正確かもしれない。
ちょっと想像してみてほしい。
たとえばあんたは今、楽しみのためにとっておいた何種類かのアイスを前に、どれを食べるか迷っているとする。食後の腹具合はまずまずで、平凡な一日だったがそれなりによくやった。ご褒美として少し高級なアイスを食べるのも悪くないし、まだ夕食の余韻がのこっている口には、さっぱりとした後味のものが合う気もする。と頭では考えつつも、アイスはやめてカップケーキの余りを食後のコーヒーと共に味わうのもいい、と疲れた体が主張しているような感覚もある。
さて、ちょうど手元にはサイコロがある。
あんたはサイコロを振るか?
迷っているなら、振るだろうな。振らない理由がない。どれも捨てがたいが、どれを捨てても構わない。振らないなら、それはあんたのなかでもう答えが決まっているからだ。
じゃあ次だ。
想像してみてくれ。
たとえばあんたは今、高い建物の屋上にいるとする。理由は必要ない。天気はからっと晴れていて、陽はまぶしいが風が通ると涼しい。体を投げ出して寝そべればいい昼寝ができそうだ。景色を見ようとフェンスに近づいたが、あと少しの背が足らず、景色がよく見えない。どうしても景色が見たいあんたは、フェンスの向こうの足場の幅を確認する。その足場は体重をかけても平気そうだが、両足で立って余裕があるほど幅広ではない。といって、足を乗せられなさそうなほど狭いというわけでもない。
手元にはサイコロがある。
サイコロを振るか? それとも、フェンスは超えてはいけないものだというあたりまえのことを思い出して、そのまま引き返すか?
そこに悪友がいたらどうだ。
そいつはサイコロの出目に従って、いとも簡単にフェンスを乗り越えて向こう側から無邪気に笑いかけてくる。こっちに来いよ、意外と大丈夫だぞ、ほら、とフェンスから手を離してひらひらとさせる。その軽やかな身のこなしと、なんの鬱屈もなさそうなあっけらかんとした気分のよさに誘われて、あんたはサイコロが振りたくなる。偶数が出たらフェンスを越える。奇数が出たら引き返す。ルールは単純だ。
手元にはサイコロがある。
そのときあんたはサイコロを振るだろうか? そしてどんな目が出ても、必ず従うだろうか。
サイコロを振れるのは一度きりだ。
振るならルールに従う。従えないなら、振るべきじゃない。一度サイコロを振ったはいいものの、出目に従うことができなかったとしたら……
それはあんたも「本当の意味でサイコロを振れる人間」じゃなかった、ということだ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、それだけ。
サイコロを振る人間と振らない人間との間には、絶対に越えられない隔たりがある。屋上のフェンスを乗り越えられるかどうか、なんて些細な問題じゃなく、とらわれている人生のパラダイムそのものをぶち壊せる可能性があるかどうか、つまり自分の覚悟で人生を変える力を持てるかどうかの問題だ。
無意識のとらわれや植え付けられた常識(パラダイム)から脱却し、思い通りの人生を歩むためにパラダイム・シフトを引き起こす方法?
簡単だよ。
サイコロを振れ。
そして出目に従うんだ。
たったの────そう、たったのそれだけさ。
「なんだよ、この動画」
透き通ったジャズの流れるバーの一角で、おれは耳の変な位置に引っかかっていたAirPodsを引き抜いて、旧友の表情を確かめた。信じられないことにまじめな顔だ。
「人生を変えるヒントだよ、カジカジ。僕はこれに出会って、本当に、人生が360°大きく変わったんだ」
「180°だろ。一回転してどうする」
「はは、そうだった。まあ細かいことはいいんだよ」
悪びれる様子もなく二カリと笑う工藤には、確かに高校時代の面影がある。いつもどこかボタンを掛け違えているような的外れ感があって、ふよふよとした腹回りも相まって、高校のころはいつもいじられキャラだった。
それが、久々に会ってみればどうだ。
脂肪ではちきれそうになっていたシャツは今や、隆々とした筋肉ではちきれそうになっている。まくり上げられた袖からは血管の浮いたたくましい腕がのぞき、しかも手首には見るからに新しいデジタルウォッチが輝いている。高校の同級生だといわれるより、たまたま居合わせたどこぞのベンチャー企業の社長だと自己紹介されたほうがまだしっくりくる。
「自分の人生うまくいかないなって思うこと、たまにあるだろ?」
「たまにじゃない。常に感じてる」
このバーもそうだ。
行きつけの店で一杯奢るから飲みに行こうと言われて、誰がチャージ料で千円も取られるバーだと思うのか。最初は何の冗談だと身構えたが、勝手知ったる立ち居振る舞いを見るに、どうも行きつけというのは嘘ではないらしい。と、悟ると同時に、汗染みの抜けないシャツと古びたジーンズ、果ては中敷きのすり減ったスニーカーというあまりに場違いな服装で来たことを後悔した。
「なら、サイコロを振る時だよ」
工藤の様子が変わった、というのは風のうわさで聞いていたが......と、おれは居心地の悪さを感じ、履き古したジーンズの尻を背の高いスツールの上でもぞもぞと動かす。
「ここにサイコロがある」
いつどこから取り出したものか、カウンターにはいつの間にかサイコロが置かれている。白地に黒の点が刻印され、一だけが赤く塗られているシンプルなものだ。
「さ、振ってみて」
「どういうつもりだ?」
「もう一杯飲むでしょ? それをサイコロで決めよう」
おれは値段の書いていないメニュー表を思い出して、頭をかかえたくなった。財布には五千円しかない。それも、今月分のなけなしの食費だ。
「いや、おれは一杯でじゅうぶんだ」
「奢るよ。せっかくだからもう一杯付き合って」
「よせ、冗談じゃない。金をけちってるわけじゃないぞ」
「なら、こうしよう。サイコロを振って、もう一杯飲むか飲まないかを決める。ついでに、飲むなら次の一杯をどっちが奢るのかも一緒に決めよう」
1か2なら僕が、3か4ならカジカジが、5か6なら今日はここまでにして店を出る。と工藤はいともたやすくルールを決めて、当然のようにサイコロを手渡そうとしてくる。
「正気か?」
「もちろん。さ、いいから振って」
有無を言わさない迫力に押し負けて、おれはサイコロを手にした。
サイコロを振るなんて高校はおろか、中学、下手をすると小学生のころのすごろく以来かもしれない。おれは思いのほか新鮮な気持ちで、硬質で、角のある、小さな立方体が手の中を転がりまわるのを味わった。
まだ給料日まで一週間強のこっている。出目次第では、今月の食費が飛ぶことにもなりかねない。
おれが払う羽目になる確率は3分の1だ。確率はそう高くない。かといって、限りなく可能性が低いわけでもない。3と4だけはやめろ、冗談じゃないぞ、と強く念じる。
カラン、と涼やかな音を立てて、サイコロは磨き上げられた灰皿の中で転がった。
出目は─────
「そうか、うーん」工藤は肩をすくめた。「5か。残念だけど、サイコロの導きだ、仕方ない。今日は一杯でやめておこう」
危なかった。
もし一つズレて4が出ていたら、面倒なことになるところだった。
「そうだな、今日はもう帰ろう」
「うれしそうだね」
おれは工藤から見えないようにガッツポーズしていた右手をさりげなくほぐして、「気のせいだろ」と首をかく。
いい大人がバカみたいだと思う一方で、おれはそのとき確かに自分の胸が高鳴っているのを久々に感じていた。たかがサイコロ、されどサイコロ。つまらなくありふれた日常にゲーム性を持たせる道具としては、アリかもしれない。などと甘っちょろいことを考えていたから、隙が生まれたのだと、今になってから思う。
いやあの夜の再会は、すべてはおれにサイコロの味を覚えさせるための策略だった可能性すらある。
去り際、タクシーを止める前に、工藤は思い切ったように振り返った。
「いいね、カジカジ」
「その、カジカジって古いあだ名はやめてくれ。梶野でいい、くすぐったい」
「うーん、僕は気に入ってるんだけどな」
そもそもそんなに仲が良かったか? とおれはいぶかしんだ。
梶野と工藤で名前の順が近かったから、席が近くなることも多かったような記憶はあったが、はっきりいって特別仲良くした覚えはなかった。
だから同窓会をすっぽかした翌週に、個人的に連絡がきたのもだいぶ驚いたのだが......
「やめてくれ。名字でいい」
「じゃあ、こうしよう。サイコロを振って─────」
「わかった、わかったから。好きに呼べばいい」
「ありがとう、カジカジ。本当に」
「はぁ。高い酒を奢ってもらったこっちが礼を言わなきゃだろ」
「そうじゃないよ」と工藤はまっすぐこちらを見た。「高校のころ、中学から一緒に上がったみんなの中で、変わらず仲良くしてくれたのは、梶野だけだったから」
「そうだったか?」
言われてみれば、人見知りだった工藤は、高校での新しい人間関係に慣れるのに苦労して、中学の知り合いとばかりつるみたがったせいで疎まれていた、ような気もする。だがほとんど思い出せない。
「そうだったんだよ。覚えてないか、ちょっとショックだな。まあ、クラスの人気者のカジカジからしたら、多くの友達のうちの一人でしかないか」
「人気者じゃない。でかい声で騒いでただけだ」
「でも羨ましかったし、中学から変わらず接してくれて、心強かったんだ。君がいなかったら僕は高校を辞めてた」
「そうか。そりゃあ、どうも」
むずがゆくて仕方ない。おれは人差し指で鼻をこすった。
大通りにはもう何台も空車のタクシーが過ぎていった。人通りの多い繁華街で、しかもぼうっと突っ立ってする話じゃねえよな、と思う。間の悪さが工藤らしいといえば工藤らしい。
「高校を辞めていたら、今の自分はなかった。ある意味で、君は僕に人生に転機をくれたんだ」
「やめろよ、そんなたいそうな話じゃない」
「そうかもしれない。でも、勝手な恩返しとして、僕はこのサイコロと名刺を渡したい。受け取ってくれるかい」
「あ、ああ。いいけど」
そうしておれはサイコロを受け取った。
受け取ってしまったんだ。
それが自分の人生を大きく変えてしまう判断だったとも知らずに。
(つづく)