京都ー大阪間の物流を築いた豊臣さんの大工事
土木の偉人(プチコーナー)
この言葉は、アメリカ・カルフォルニア州サンフランシスコのゴールデン海峡にかかるゴールデンゲートブリッジ建設に大きく貢献したジョセフ・シュトラウスの言葉です。
ゴールデンゲートブリッジというのは、その見た目から見ても吊橋であることはわかるのですが、さまざまな構造的仕組みをうまく取り入れることで、非常に長い橋を建設することができました。この案などを提案したシュトラウスからすると、彼の考えやアイデアは夢から始まっているのかもしれませんね。
さて、今回は歴史を振り返る企画として、豊臣秀吉の土木についてご紹介できればと思います。太閤秀吉が作り上げようとした日本とは一体なんのか。その一端を知るために、今回取り上げるのは京都の淀と太閤堤について見ていきます。
本編
豊臣秀吉が残した土木とは
豊臣秀吉は、1537年に今の愛知県、尾張に百姓の子どもとして戦乱の世に生まれました。秀吉は相当頭の回転が早い男なのでしょう。さまざまなアイデアを持って死地を乗り越え、最終的には天下を統一して太閤と呼ばれる天皇の代わりに政治が行えるような立場にまで上り詰めました。
秀吉は出世の鬼として、大きく成り上がりを成功させましたが、その成功は単に戦や内政、計略がうまかっただけではありません。土地を知り、それをどのように支配するのか。秀吉の築いた土木にこそ、秀吉の狙いや彼の能力の高さなどが見えてくるはずです。
秀吉が天下を統一するにあたってさまざまな土木工事をこれまでしてきましたが、その一つに治水工事があります。普通、町を築こうとすると、平らな土地、すなわち平野に作りますよね。しかし、何百年も昔の日本は、川の流れ複雑で平野に出るとあちこち水浸しという土地が非常に多かったのです。それはこの京都にある淀でも同様でした。
京都府の淀とはどんな土地か
この淀という地を少しだけ東に行くと巨椋池という巨大な池があります。
ん?地図を見てもそんな池どこにもないけど?
と、あれと思う方もいらっしゃるかもしれません。
それもそのはずです。この巨椋池は1933年から1941年にかけて干拓事業が行われ、巨大な農地として姿を変えることになったからです。
今でこそその姿をお目にかける機会はありませんが、秀吉の時代ではこの伏見の地で非常に悪さをしていた原因でもありました。
少し古い地図を見てみましょう。
現在の淀付近では大きな巨椋池とそこに集まる河川があり、かなりの湿地であるということがわかります。このような土地では河川の氾濫なんて日常茶飯事だったのでしょう。しかし、大阪城から京を目指そうとした時、それ以上に、西から京を目指そうとしたとすると、必ず通らなければならないのがこの淀・伏見です。しかし、ここが水浸しでは、なかなか京に辿り着けません。そういった問題がこの地にはありました。
秀吉は何を狙っていたのか
大阪城築城後、天下統一を果たし太政大臣として太閤になった秀吉は伏見城に入場します。この伏見という地が晩年の秀吉の拠点だったわけですね。
では、なぜこの地が秀吉にとって重要だったのでしょうか。
いくつか諸説等はあるとは思いますが、今回は京都と大阪の経済的つながりから見ていきたいと思います。
安土桃山時代、京都が都として中心的な土地だったということはご存知かと思います。そして大阪もまた、港のある街として非常に重要な都市になっていました。
大阪は物流の要として、商業の中心になっていました。そして当然、京都と大阪で物資の輸送や人の移動が盛んに行われていたでしょう。大阪・京都で物流を強化すれば、京を中心とした強い国が築けるはずです。
しかし、ここの物流を強化するためには、大きな問題がありました。それが巨椋池と宇治川や桂川などの河川が一気に合流する淀という地です。このような巨大な湿地帯があっては、安定した物資の輸送は叶いません。そこでこの一帯を大きく整備する必要がありました。
秀吉が行った工事は、主に宇治川や淀川を巨椋池から分離させ、堤防上に道を作ることで、水上と陸上の両方で物流機能を確保するという目的がありました。そして伏見に城を築いたことで、京都-大阪間に秀吉が構えるという構図も生まれました。この伏見・淀という地がいかに重要な土地だったのかがわかります。
秀吉が残した土木は何を成したのか
この秀吉の太閤堤は家康の時代にも受け継がれていきます。
家康は、江戸幕府を開いた後、その多くを伏見で過ごしました。徳川家はこの京都伏見を非常に重要なポイント地点として活用していきます。水運による物流はもちろんのこと、参勤交代で西からくる大名たちも必ずこのルートで来ることが分かっていたので、淀に城を築いて関所のような役割も持たせました。政治の中心は武家であり江戸にありましたから、大名たちが京にいる天皇に寄らないよう監視する意味合いも込めていたのです。
そして現在の宇治川の堤防では秀吉が作ったものの上に重ねて盛土をするなど、今でも秀吉が残した土木の痕跡を見ることができます。
今回の記事を作成するにあたって、私は現地に行けなかったので、京都に寄る際はぜひ行ってみたいですね。
ということで、今回は豊臣の大土木工事を取り上げてみましたがいかがだったでしょうか。少し秀吉の話に寄せて書いたので、正直全然書き足りてはいないのですが、巨椋池の干拓事業や淀川についてなど続編をお待ちください。
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