謝罪と言葉
悪い事をしたら謝罪する。
謝罪したら許される。
私が感じてきた社会では上記の風に見える。
これに付け込んで、”謝罪したら何もかも許されるから何を言ってもいい”と解釈をする人がいる。
例えば、ごちゃごちゃと罵詈雑言を並べて最後に「ごめんね、なんでもない」と言えば全て許されるだろうか。
そんな訳ない。
本当の事でも言っていい事と悪い事があるように、謝罪を免罪符に何を言ってもいいとは限らない。
そもそも、悪い事はしないし言わない事に限る。
言葉はコミュニケーションを取るひとつの道具であり、時には刃物になる。
または、私たちの血肉であると私は思う。
ご飯を食べて、”体”を作り成長するように、言葉も本や黒板から学び培って、”人間”というものを作る。
物理的に人の体のでき方と似ている気がする。
そして血肉のように、言葉とは生きるに絶対になくてはならないものである。
私の好きな言葉のひとつに「言葉はタダでできるおしゃれ」というものがある。
言葉使いひとつで洒落る事ができるのはすごいとは思いませんか?
少し脱線してしまったが、謝罪する事は立派な事だと思う。
大人でも「ごめんなさい」が言えない人だっている。
罪を認める態度だけ取れる、つまり偽っていてたとしても、謝罪の言葉が言えるのはすごい事。
ただやはり私の中で「謝罪するような事を起こさない、言わない事の方が賢明なのではないか」と思ってしまう。
人は完璧じゃない、ミスは仕方ない事なのだが、上記に書いた通り”謝罪”を免罪符に何言ってもいいと思っている輩がいる為、私は本当にただのミスだった場合の謝罪がなんだか嘘くさく聞こえてしまう。
紛らわしいので、免罪符として謝る人は今すぐ考えを改めて欲しい。
「言葉は血肉や刃物」など言ったが、一番は”一度出してしまったら戻せない”と言う所だ。
「撤回します」と言ってもそれは言葉を上書きしているだけ。
SNSなどで投稿を削除しても、一度全世界に公開されている為、誰かは見ている。
言葉は時にはこのように恐ろしいものになるのだろう。