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『親ガチャ』という言葉をスピリチュアル的に考える

まず、このnoteの2ndアカウントで記念すべき1記事目に何を書こうか考えたが、やはりこれしかない。

人生・・・この世に生まれてきた意味・・・この課題にかかわってくる。


昨今、『親ガチャ』『子ガチャ』というような言葉がSNSなどを通してきかれるようになってきた。

私は独身で子供もいないし、ここでは、『子ガチャ』という問題については置いておく。また別でとりあげるかもしれない。

今回は『親ガチャ』という問題について話したい。


人の人生は、生まれ育った環境に起因するものが大きい

この世に生まれた以上、親がいない人はいないので、誰しも
「こんな親に生まれなきゃ良かった」
・・・と思うことはあるかもしれない。

私は幸いにして一度もないが、私の周りには、
・親から虐待を受けていたり
・片親だったり
・そもそも生まれの両親を知らなかったり

・・・・様々な環境の人がいる。

そういう人の立場になったら
「😕自分なんてこの世に生まれなきゃ良かった。なんで自分を産んだんだ!?」
・・・と、私も親を憎んでしまっていたかもしれない。

私は恵まれているとは思う。小さい頃から家庭は何不自由ない暮らしだった。

父は公務員、母は銀行員だったし、実家は戸建てで裕福な家庭で長男として産まれた。。
ファミコンソフトなども1年に2回くらい買ってもらえたし、毎日おいしい手作り料理が3食出てきて外食などにも連れて行ってもらえた。
習い事も4つくらいさせてもらえたし、大学にも行かせてもらえた。
可愛い犬も飼っていた。

不満なんてひとつも無かったのである。


ハーバード大学の哲学の講義で、有名なマイケルサンデル教授が述べたこと。

人の実力・能力というのは生まれ育った環境に起因するものが大きいということだった。

サンデル教授はさらに、長男・長女などの、いわゆる『第一子』であるかも、教育や進路に大きく影響を与えているという説をとく。

実際にハーバード大学の講義の場で、「この中で第一子はどれくらいいるか?」という学生への問いに、8割前後の人が手を挙げた。

第一子というのは親から特別な愛情を注がれる。そのため、第二子、第三子よりも学歴が高くなるという事実がデータとして証明されているのである。


私自身の家もそれを感じることがある。

産まれてから幼少期〜小学校の写真アルバムについて。昭和の時代だったので今のようなデジタルデータはなく、大きなアルバムに何百枚も収められていた。

写真の枚数やアルバムへの収め方を見る限り、本当に両親に愛されていたのだなと感じる。

しかし・・・・

3歳年下の弟のアルバムや写真の量は、私の半分にも満たないのである。

両親いわく、
「2番目の子ってのは、写真とかも少ないものなの」
・・・と言っていた。

同じ家に生まれてすら、不公平はあるのである。


もちろん、第一子が第二〜三子より優れているということがどの家庭にも当てはまるわけはないが、統計として、証明されているし、そうなる確立は高いのである。


話を少し戻して・・・
第一子、第二子という問題よりも、もっと深刻なのは家庭そのものの環境・・・親である。

たとえば、
『家が貧乏で、父親がギャンブルや酒びたり・・・離婚・・・離婚後、母親は男を家に連れ込んで、その男に自分が虐待される』
というようなシチュエーション。

なんだかドラマや映画であるような設定だが、もしこういう家庭であれば、子供は有名大学に行く優等生になることはなく、グレてしまい暴走族など非行に走るケースが高くなる。

もちろんこれも全てに当てはまるわけではなく、こういった環境においても本人が努力し、各界の著名人として成功している人もたくさんいる。

だが、自分はこういう家庭に育っていたら・・・と想像すると、本当に今の両親のもとに産まれて良かったという気持ちになる。


さて、ここからはスピリチュアル的にこの問題を考える。


急に話の流れが変わります。


以下が私の本音である。


そもそも、今の人生は自分自身が選んだもの

今までの話をスピリチュアル的に考えると、全くとらえ方が違ってくる。

人はこの世に生を受ける前、どのような人生を送るのかを自分で決めているからである。

どの親のもとに産まれ、その後、どのような人生をおくるかも、おおまかに知った上で自分で選択する。

私はそれを確信して40代前半まで生きてきた。異論は認めない。

(私のスピリチュアル感そのものについては、別の記事でお話します)


つまり、人生は自己責任なのである。

人は生まれながらにして『不平等』でありながら、
人生そのものは誰にとっても『平等』であるといえる。


自分の人生を幸せだと感じようが不幸だと感じようが、自分で選んできたことである。

少しでもスピリチュアルに触れたことがある人ならそれを理解していることだろう。私は特定の宗教を信仰することはないが、仏教でも同じような考え方である。


こんなことを書くと、
「お前は裕福な家庭で育ったから、学識もあって今の生活ができているんだろう」
・・・と思われる方もいるかもしれない。

たしかにそうだ。
先ほど書いたような、両親がどうしようもない家庭で育てば、こうして今、誰かにむけてnote記事を書いていることもないだろう。

だが、
それも含めて全て、自分で産まれる前に決定した人生なのである。


記事の冒頭では、裕福な家庭に生まれて幸せだ・・・と話したが、
実際、大きなスピ的視点で考えると、幸福も不幸もないのだと思う。

だって、どんな人生でも、自分が産まれる前に選んだ人生だから。


それを悟ったから私はより人生を豊かに生きられている。

一生治らないと言われている病気も患い通院中であるが、魂レベルで物事を考えると、こうなるのも運命だった・・・病気と戦うことに意味があるのだと納得できる。

だが、そういう風に行き着くまでがめちゃくちゃ大変である。

スピ的な視点をもてず、自分の生まれ育った環境を呪ったり、周囲に愚痴や不平不満を言いながら一生を終えていく人もいる。

本記事のタイトルにあるような『親ガチャ』という言葉は、まさにそれを象徴したような言葉であると思う。


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