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ノスタルジーの言い分では——鹿島田真希「冥土めぐり」感想——


「だから」にみちびかれて

(前略)彼女たちは自分たちはなにもしなくても与えられる側の人間だと思っている。なんの根拠もなくそう思っているのだ。母親にとって、男というのは搾取の対象でしかないのだから。(中略)幼い頃から繰り返し奈津子にこう言った。——いい? あなたが大きくなって、彼氏ができたら、その人はきっとお城みたいなフランス料理のお店へ連れて行ってくれるわ。そして料理がきたら、まず先にあなたが食べるの。彼はしばらく食べないで、あなたが食べるのを見てると思うわよ。かわいいなあって。男の人はね、食事に行くと、女の人が食べているのを見て、それでお金を払うの。それが恋なの。だからきっと楽しいわ。
 だから、楽しい。母は確かにそう言った。そのことのなにが、だから、なのか、奈津子にはまったくわからない。とにかく奈津子は太一と結婚したかった。おそらく太一は、母親が言う恋人像とはかけ離れているだろうと思ったのだ。(後略)

鹿島田真希『冥土めぐり』(河出書房新社、2015年10月)29,30頁。太字による強調は引用者によるもの。

 鹿島田真希「冥土めぐり」は2012年に河出書房新社『文藝』に掲載された短編小説である。後に芥川賞受賞作となる。上のシーンはこの作品のハイライトの一つといって差し支えない。

 主人公の奈津子は区の保養所として零落したかつての高級ホテルへと訪れる。在りし日の祖父を中心に財を気付いた一族の、すでに失われた栄華を象徴する場所として、奈津子の中でそのホテルは位置を占めている。障害を負った夫・太一を伴う一泊二日の道行では、たびたび娘を抑圧してくる母親と、他人を顧みない弟と過ごした日々の記憶が呼び返される。現実認識を改めず、スノッブなまま蕩尽を止めようとしない家族との生活を「あんな生活」と呼んで、奈津子は軽蔑している。「冥土めぐり」とは、ノスタルジーが醸し出す腐臭を残すホテルと、「あんな生活」の記憶をめぐる旅のことであるのは言うまでもない。

 引用箇所も回顧された「あんな生活」の一場面である。旅先で定食屋に立ち寄り、そこで太一と食事を摂る。その光景から連想が働いて、「あんな生活」における食事の風景や、太一と馴れ初め、太一を母親と弟に紹介したときの記憶が呼び出されていく。意識が過去をめぐっていくなかで、ふと思い出されたのが上掲の母の言葉だった。

「冥土めぐり」では、母親が奈津子に滔々と語った後「だからきっと楽しいわ」と結語する。「だから」によってみちびかれる結論に奈津子は難色を示していた。

〘接続〙 (助動詞「だ」に助詞「から」の付いたものが自立語化したもの) 先行の事柄の当然の結果として、後続の事柄が起こることを示す。理由を示す。であるから。それだから。だからして。

『精選版 日本国語大辞典』

「だから」の一般的な意味は上記の通りである。どの辞書においても、概ね同様の語釈が与えられている。今さら一々確認する必要はないかもしれないけれど。

 しかし、もう少し踏み込んでみる。森田良行によれば、「から」が用いられる場合、結び付けられる条件句と結果句の関係は「共に話し手の主観によって認知された関係であ」り、「本来別個のものである二つの事柄を話し手が順々に認識し、それを「AであるからBなのだ」と、理由ー結果の関係として結びつけている形式」(森田、2018年3月、38頁)という。

「だから」によって、本来別々のものが繋ぎ合わされる。しかも、それらは主観の下で、当然の帰結として一つの時系列に置き直される。故に、「だから」と接続する場合、多かれ少なかれ論理の飛躍が起こりうるのである。

では、母親の言う「だから」の条件に相当するのは何なのだろう。

 それは冗長に曖昧化されているが、「あなた(奈津子)は私の娘である」という命題である。そこから母親の下した主観的判断によって、論理に飛躍が生じる。その独特なロジックのなかで奈津子は息苦しさを覚えるのである。

「なのに」、どうして

 そして、奈津子の母親の思考回路で作動するこの「だから」は、母娘間の呪いとも思しい紐帯関係を、予想以上に強固にしている。

「呆れた。どうしてあなたは私のためになにもしてくれないの? 私はただお金がほしいだけなのに。哀しい。思いやりのない子ね。どうしていつもいつもそんなに親不孝なの? 私を愛してくれないの? 娘なのに」

鹿島田真希、前掲書、63頁

 この台詞の末尾「娘なのに」の一言に、奈津子の母親の価値観が集約されている。接続助詞「のに」に関して、ふたたび森田良行による解説を引こう。

「のに」が、”前件がそのような事実であるにもかかわらず、あえて後件の事実である”という逆説ゆえ、後件を省略することによって、”前件の事実から予想し期待していたにもかかわらず”という期待はずれの事実に対する不満の気持ちを含めた言い方となる。なぜだろうという疑いの気持ちを伴う

森田良行『思考をあらわす「基礎日本語辞典」』(KADOKAWA、2018年3月)、146頁

 母親が「娘なのに」と溢す逆説の不満は、「娘だから」という順接の裏返しである。「娘だから」、私のために何かをすべきであるし、金銭を奉げて当然だし、親孝行であるべきという主張になるのは言うまでもない。そうした不満は期待を裏切られたからこそ湧き上がってくるものだ。母親はそれだけ過剰な期待を奈津子に寄せていた。元スチュワーデスの自分のように、娘は美人と噂されなければならないし、男からチヤホヤされなければならない。当然そうなるべきだったのだ。この母娘一体のような束縛はこの作品を構成している主たる要素の一つである。

 実際、高橋源一郎・斎藤美奈子『この30年の小説、ぜんぶ 読んでしゃべって社会が見えた』(河出書房新社、2021年12月)では、「母と娘の確執が文学になるとき」として、父殺しの物語から母殺しの物語へとムーブメントが移行したことを象徴する作品として紹介されている。

 母殺しのメタファーにおける男女間の違いについては、竹村和子『愛について』(岩波書店、2002年10月)において論じられている。少し触れておきたい。

(前略)母への愛を母と同じ性のべつの対象(女)に移動させて、ということは自分自身を母とはべつの性(男)として構築する男児は、母殺しをスムーズにおこなえるかもしれない。他方、女児の場合は、母への愛の忘却は母の体内化へと推移しなければならないので、自律性のための母殺しはみずからを殺すことを意味する。(中略)母への愛を殺さずに、性対象を母と同じ性に求めて、母の殺害(母からの分離)ができる男と、母への愛を殺して(忘れて)、母と同じ性になり、母の殺害(母からの分離)ができない女。(後略)

竹村和子『愛について』(岩波書店、2021年12月)、194頁

 母-息子の場合は、息子自身が父となって母親と同じ性の対象を所有することによって母殺しは達成される。これは単純でわかりやすい。エディプス三角形における父の位置に就こうとすればよいのである。
 しかし、母-娘の場合は事情が込み入っている。精神分析における三角形に「女」の位置が想定されていない以上、「女」はたとえ「娘」であろうと常に「母」となることが織り込まれているのである。娘の場合、男とは異なり、母への愛を外部に求めることができない。母それ自体ではなく母への愛を殺す(こうして母への愛を抱きつつも、その忘却を強制されたことによる抑鬱を竹村は「娘のメランコリー」と呼んだ)。そして、いずれ母になる(母を体内化する)娘にとって自身への愛を殺すことと同義になる。
 母娘の一体性は不可避的に推し進められるも、やがて忘却の中からは記憶が立ち上ってくる。「娘」が「母」になることで娘のまなざしには、かつて「娘」だった「母」の視点が導入される。折り返されるように「娘」の視点には、かつての「娘」だった「母」の視点が重ねあわさり、共鳴するように記憶を喚起する。この記憶は通時的な娘から母への「発達」の物語を、「母」であり「娘」であり「女」であることが同時に成立する、共時的な「経験」へと彼女らの関係性をずらしていくのである(竹村、2021年、222,223頁)。

 「冥土めぐり」の冒頭で奈津子が着ていたピンクのカーディガンは母親から贈られたものだ。しかも、母親がおそらく若かりしころの自分に似合うと恃んで買ったものだった。竹村が論じていたような、愛によって取り交わされる娘と母の間の関係は、この作品においては娘から母へという「発達」の物語を通過している。共時的な「経験」は、異なる時間において「母」と「娘」として生きた二人のまなざしによって愛の記憶を呼び覚ましうるものだ。しかし、奈津子と母親の間では、呪いと化して、娘を縛り上げるものとなっているのである。母親に向けるのは憎しみばかりだが、奈津子が過去の記憶(経験)に囚われること自体は、逆説的な母親への愛着を示している。

「だから」という接続詞は、この作品においては、こうした母娘一体の密着関係を強調する言葉としてあらわれ、引用箇所以外にも散りばめられている。

 そうした母からむけられる束縛から逃れてもよいのだという選択肢があることに、奈津子は作品の結末でようやく気付くことになる。

 母親の支配から脱したことは一つの母殺しの達成である。それがいかなる要因によって可能になったのかはまた後述するとしよう。
 だが、まずは奈津子とその母親による愛憎入り混じった紐帯が、どういう力の元に成立してしまっているのかを述べなければならない。
 「あんな生活」と呼んで、母親と弟と暮らした日々のことを嫌悪感をもっているにも関わらず、ホテルへと奈津子が訪れるのは、母親の「亡霊」に導かれるようにしてなのだから。

生きのびてしまった人たちへ

 ロラン・バルトによる写真論『明るい部屋』においては、写真と映像の違いとが繰り返し述べられる。

 写真は〈それは=かつて=あった〉といったように、対象が、過去において、確かに存在していたことを伝える。それは、単なる現実の複製ではなく、存在の痕跡であるといえる。いや、標本といった方が適当かもしれない。時間の流れはシャッターによって区切られ、堰き止められる。被写体の生はある瞬間にあるポーズでピン留めされ、「平板な死」へと追い込まれる。要は撮影された人や物や時間はフィルムに焼き付けられたとき、生気を奪い去られ、厚さ一枚の紙にとどめ置かれてしまうのである。こうして、死を基調とすることになる写真は、どうしようもなく過去志向の性質を帯びる。
 一方で映像は、意外にも写真とはほとんど真逆である。被写体は、写真の場合、レンズの前で留まるが、映像の場合は通過していく。ポーズに固定されることなく、時間の経過も現実と同じように流れていく。彼らはある時間の一点に囚われることないので、「平板な死」は訪れない。たとえ檻のように一区切りの中に閉じ込められるにしても、彼らの生の時間は持続している。彼らは映像のなかで生き続けているのである。この点で過去志向ではなく、未来志向である。
 単純な生と死の二項対立に押し込めるのはさけるべきなのかもしれない。しかし、明らかに死と結びついている写真と対置したとき、映像は「生」を含意すると述べて構わないだろう。

 ところで、「冥土めぐり」では、八ミリフィルムがキーアイテムとして登場する。

奈津子はホテルをモノクロの八ミリフィルムで何度も見せられて、もうたくさん、というほど知っていた。銀幕のスターよろしくタキシードを着た若い祖父。当時は珍しいデコルテの見えるドレスを着た祖母。二人が古い八ミリ独特のぎこちない荒いコマの動きで、ホテルにあるというサロンで踊る。そのことが母親にとってどんなに誇らしいことであったかということも知っている。一生の内、一度はあのホテルに泊まってみたい、みんなそう言うんだ。祖父は言っていた。母親もその言葉を自分で思いついたかのように、繰り返し幼い奈津子に言っていた。

鹿島田、前掲書、12,13頁

 この八ミリフィルムは奈津子の祖父が撮影したものだ。そこには祖父母とともに、「リボンを胸につけた、裾の大きく広がったドレスを着た幼い母が誇らしそうにダンスを見ている」姿も収められている。

 映像はモノクロで、どうやらサウンドは仕込まれていないらしい。解像度の低い、しかも無音である白黒の画面を繰り返し見せられるのは苦行であると言わざるを得ない。だが、母親にとってそれはかつての華々しい日々の証明であり、拠り所であった。

 さて、このフィルムが映し出す情景は当事者以外にとって、無味乾燥なものに映るに違いない。失われた栄華からは腐臭が立ち込め、多分に死を漂わせている。そこから思うに、バルトの述べたところの写真に近い性質を帯びているようにも受け取れる。何しろ、母親の時間はそこで止められてしまっているのだから。しかし、これは紛れもなく映像なのである。映像という「生」を喚起させる媒体によってこそ、現在に残されていた意味が作用していく。

 ステファヌ・ナドー『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』(水声社、2010年3月)は、ノスタルジーを「悪しき傾向」として、「死に対する生の勝利という幻影(変わらず生きているのではないかと思い込むほどに自分がこだわっている過去の――死んだ——思い出)に養分をやるもの」と評している。(ナドー、2010年、153,154頁)

 もし母親をはじめとする家族の在りし日の姿を残したのが、写真であったのならどうであったろう。〈それは=かつて=あった〉ことを告げる。母親は生きている限り、写真を手掛かりに、ホテルでの逗留体験を繰り返し話したに違いない。いずれにせよ、ノスタルジーの濁流の起点とはなりえただろう。
 しかし、映像であることによって、それはより深刻化しているのだといわざるをない。母は繰り返し語るのみならず、奈津子に八ミリの映像を見せているのである。だからこそ、奈津子はありありと祖父母や母親の昔日の振る舞いを思い描くことができている。母親の一族の栄華はすでに瓦解したのは明らかであるのに、映像のなかにはまだ彼らの生が、残響のように谺しているのである。いつか彼らとともに過ごした生活が戻ってくるかもしれない。そのノスタルジーを糧に生き続けている奈津子の母親はさながら亡霊である。そして、実際、奈津子によって「成仏できない幽霊」と表現されている。

(前略)本当に辛いのは、死んだのに成仏できない幽霊たちと過ごすことだ。もうとっくに、希望も未来もないのに、そのことに気づかない人たちと長い時間過ごすことなのだ。
 だから、物心つく頃には、すでに奈津子の希望と欲望は薄れていた。(後略)

鹿島田、前掲書、51頁。太字による強調は引用者によるもの。

 この引用箇所でも注目したいのは、「だから」という接続詞である。

「だから」については、母と娘の一蓮托生的な一体関係を強調する接続詞と前に述べた。この「だから」による論理は、母と奈津子に留まらず、家族と奈津子へと敷衍していく。彼女が用いる「だから」が導く条件句には必ずといっていいほどに、家族が含まれている。

「あなたに失礼なことなんて一つもないわ」奈津子は言った。「うちの家族、ちょっと変わってるのよ。だから、それが嫌なら、結婚してくれなくてもいいの」
「ええ?」
 太一はつかんでいたトンカツを箸からぽろりと落とした。
「結婚するのはなっちゃんとなのに? そんなのなんか変だよ。なっちゃん昨日、緊張して疲れたんじゃないの? それより、結婚式のことでも想像してみなよ。なっちゃんきっときれいだろうなあ」
「ごめんなさい」
 ありがとうと礼を言うべきなのに、奈津子はなぜか詫びた。

鹿島田、前掲書、30,31頁。太字による強調は引用者によるもの。

 「冥土めぐり」という小説にはこの論理が横溢している。奈津子は過去の栄光に囚われた母親がおり、家族がいる。「だから」、あらゆることを諦めなければならない。

(前略)ずっと以前に死んだ世界のなかで生きるよう自分あるいは他人に強いること、生の力(若さの力能、構築されつつある現在)一つの目的、合目的性あるいは存在理由(死んで墓穴に埋まっている過去に対する老いのノスタルジー)に従わせること(後略)

ステファヌ・ナドー『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』(水声社、2010年3月)172頁

 以上を、ナドーは過去の出来事との関係を保つ上での「落とし穴」として提示する。奈津子が諦観に支配されているのは、生の力を家族に、さらにいえば家族の思い出に従属させられているからである。

 しかし、彼女もまたノスタルジーの虜になっていると言わざるを得ない。ナドーがノスタルジーに与えた第一定義は「持っていなかったものを失う恐怖という逆説」であり(ナドー、159頁)、その果てに「人がたどり着くのはわたし自身とは無縁のものであること、われわれのなかにではなく外にある失われた時を再発見しようと考えること」であると述べる(ナドー、164頁)。

 奈津子による「冥土めぐり」は単なる慰安旅行でも傷心旅行でもなかった。最終目的地は心中である。それは明言されなかったものの、そしておそらく夫も道連れにした心中旅行であった。

 自殺はあらゆるものと手を切る。自分を苦しめる思い出を葬り去るための、能動的な忘却たりえるかもしれない。けれども、それならなぜ、亡霊たちの賑やかしい声の谺するホテルを訪れる必要があったのだろうか。そのおとないは、家族への嫌悪感に隠された愛や拘泥を密かに滲ませていた。

「二人ともちょっと変わってるもんね」
「そうなの。小さい頃は、お母さんたちの言う良かった頃に戻れると思ってた。だけどこの落ちぶれたホテルに来たら、もう人は、昔には戻れないって知ると思ったから、今までここには来れなかったの」

鹿島田、前掲書、58頁

 ナドーはノスタルジーの第一定義に「持っていなかったものを失う恐怖という逆説」を与えていたが、奈津子にもこの当てはまる傾向といえるだろう。心のどこかでは豊かな生活を享受できればと思うこともあった。それは明言されているし、零落したホテルを通してハッキリと輪郭をもって突きつけられることの怖れていた。
 しかし、奈津子は経験したことのない生活を懐かしんでいるのではない。時間が不可逆的であることは承知している。だからこそ、昔に戻れないことが恐ろしいのである。良かった頃がやって来ないということは、母親が正気には戻らないのだと知ることにほかならないからである。

 「冥土めぐり」をはじめるにあたって、奈津子は母親の仮装をする。前述の通り、母親から贈られたピンクのカーディガンを着ている。その風体で向かう心中旅行の行き先であるホテルが、もうずいぶん前に保養所になっていたことも知っていた。母親の思い出の場所であるホテルが廃れたという事実を、母親を憑依するようにして訪れることで、過去への執着を、あまつさえ自身の生さえも絶とうとしている。

 だが、そうして試みられる自殺は奈津子単独の力能による能動的な死ではない。条件節に居座る母親や家族に括りつけらえたまま、「だから」の合目的性のもとで受動的な死を選択させられるのである。そして、ノスタルジーはそれを後押しする。

「だけど」、だからこそ

 しかし、「冥土めぐり」は凄惨な結末を迎えはしなかった。むしろ、晴れやかな気分で幕引きとなる。それをもたらしたのは、夫・太一の存在である。

 太一は元区役所職員で、奈津子がパート働きをしている時分に出会った。結婚後、脳に後天的な障害を負い、四肢は充分に動かせず、たどたどしく杖をつく、発作の所為で白髪だらけの風貌は36歳という年齢には似つかわしくない。奈津子は「理不尽という現象そのもの」として夫にまなざしを送ることもあった。
 奈津子と太一の夫婦を見舞った不幸は、「お前は幸せになれない」と奈津子に言って聞かせているようだと彼女は感じている。だが、その一方で太一は耐えかねることなく、どこか楽観的に生きている。むしろ、障害を境に、運には恵まれ、どこへ行っても人から愛されるようになる。
 この人物造形はロシアにおける聖愚者を思わせる(正教徒であった作者の来歴と照らし合わせれば、それは自ずと分かることだ)。彼の発作にはどこか聖性が感じ取られ、肉体の状態としては登場人物のだれよりも、死に近づいているにも関わらず、もっとも生の躍動に満ちている。

 たとえば、「だから」という言葉を用いるとしても、太一は自身の目的のために理由付けができている。

 太一は突然、「明日ね、電動車椅子の操縦試験があるんだよ。だから、なるべく車椅子に乗っていたかったんだ」と言った。

鹿島田、前掲書、74頁。太字による強調は引用者によるもの。

 奈津子が「だから」によって過去へと受動的に動員される一方で、太一は自らの意志によってみちびかれている。

 太一は、奈津子たち家族の重力の理不尽からは、彼自身が遭った理不尽によって逃れることができた。
 高橋源一郎は「夫となんのために結婚したかっていうと、母との複雑な関係をいくらかでも和らげるために、というそのためだよね」(高橋・斎藤、2021年、93頁)という夫の位置づけていたが、これには概ね首肯する。それを受けた斎藤美奈子による「夫はダシ(笑)。でも、これはこれでリアリティがありませんか?」(同前)という発言についても同様である。
 だが、生来の思考パターンからして、ある意味埒外にある、どうしようもない他者であるが故に、作品は希望を持った終わり方をする。

 ここまで「だから」という接続詞にこだわってこの作品を読んできた。奈津子の思考パターンには、その前提に母親や家族の存在が織り込まれている。「だから」を、彼女がノスタルジーに囚われていることを象徴する語として取り上げたのだった。
 奈津子は自身の事柄については頻繁に「だから」を用いるのだが、太一に関わることには「だけど」と逆説する。

———よくある話だとは思うの、不平一つ言わないで生きていける人がいることも。だけど、どうしてなのかよくわからないけど、私には我慢できないことなのよ、と。だけど、太一はその苦しみの全てを吸収してしまうかもしれない。受け止めてしまうかもしれない。知ってしまうかもしれない。太一は鼻水をたらして泣くかもしれない。だから奈津子は話さない。そんなありがたいものは、観たくないのだ。あんな生活を潜り抜けてきた自分には、そんな純粋なものは不向きであると思うのだ。

鹿島田、前掲書、67頁。太字による強調は引用者によるもの。

 奈津子が「だけど」と添えるとき、少しばかりの祈りを感じる。太一を襲った理不尽は、字義の通り故なきものであり、理由を捉え損ねるものなのである。「だから」によるみちびきに、無意識に支配されている自分の思考を撹乱するものとして、夫の存在に期待している節はある。

 奈津子の家族は不幸ゆえに自分たちが特別だと自己陶酔しているが、太一を見舞う幸運は、太一が障害者であることによって成立しているのではない。たとえキッカケに含まれるとしても、因果関係はそれぞれ独立している。彼は「理不尽という現象そのもの」であるが、奈津子にとってそのことは救いでもあるのだ。

 奈津子には、まだ自分が欲しいものを欲しいと言い、それを買うということが正しいことなのかどうか、よくわからない。だから、小さな声で恐る恐る言ったのだ。だけどそれが全ての始まりだった。奈津子は囁くように、自分の過去のことを哀れな過去と、言ってみた。その言葉には、不思議と癒しがある。ポケットは膨らんだが、まだティッシュペーパーをしまう余裕があった。

鹿島田、前掲書、88頁。太字による強調は引用者によるもの。

 終盤のシーンである。車椅子を手に入れた太一が、奈津子に何か欲しいものはないかときく。買い物に行けるようになった太一からの申し出だった。それに対して、奈津子は「自分がなにが欲しいのか、考えたこともなかった」と気づく。

太一の言っていることが、とても壮大なたくらみのように奈津子には響いた。欲しいものが手に入る。やりたいこともできる

鹿島田、前掲書、87頁。太字による強調は引用者によるもの。

 太一の存在によって、奈津子は受動から能動へと移行していく。「だけど」はそのスイッチに相当した。太一が奈津子の生活に呼び込んだ理不尽は、奈津子の絡み取られた思考を裁断し、過去のしがらみから自由にしていく。ようやく「冥土めぐり」の終末が、奈津子にとっての「全ての始まり」となる。

 太一を見送っていると、母親から携帯に電話があった、
「しばらく電話に出てくれなかったけど、どうしてたの? すごく寂しかったわ」
「ああ、ちょっと風邪をひいていたのよ」
「また、新しい服を見つけたの。私の趣味にぴったりだったから、送ったわ」
 柔らかくて、ふわふわしていて、裾のほうへ行くほど広がって、ひらひらとしていてうっとりするようなものだったのよ。
 奈津子はありがとう、と言って電話を切った。そして、その服は別に着なくてもいいのだ、そういう選択肢もあるのだ、とやっと気づいた。
 視線を上げると遠くの方には太一がいた。太一は、たくさんの人々の中で、誰よりも切るようにまっすぐ進んでいた。

鹿島田、前掲書、89頁。

 母親との母娘一体の関係はついに分離され、母殺しが達成される。ここへみちびいたのは、夫の太一だった。「理不尽という現象そのもの」である彼は、奈津子を強制するような理屈はもたらさない。気ままでいられないはずの彼の気ままさに、励まされるのである。



参考文献

・鹿島田真希『冥土めぐり』(河出書房新社、2015年10月)
・ステファヌ・ナドー『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』(水声社、2010年3月)
・高橋源一郎・斎藤美奈子『この30年の小説、ぜんぶ 読んでしゃべって社会が見えた』(河出書房新社、2021年12月)
・竹村和子『愛について』(岩波書店、2021年12月)
・森田良行『思考をあらわす基礎日本語辞典』(KADOKAWA
KADOKAWA、2018年3月)
・ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳(みすず書房、1985年6月)

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