
上にステップアップ=成長?
よく成長は階段に例えられる。
例えば、受験。
模試の偏差値が上がる。ステップアップ。
判定が上がる。ステップアップ。
間違いではないと思う。
でも少し違和感を感じる。
じゃあ、着実に上がって、
最後に受験当日体調不良で失敗したら…?
それは階段から落ちるとか、もとに戻るとか、
そういう表現になるのだろうか。
この階段で成長を例えるとき、
その成長は
ある限られた指標に基づいて上がったか下がったか
という目線でしかはかられてない気がする。
その表現はわかりやすくて
もちろん適している場合もある。
でも、人生という大きなスケールで考えたとき、
いろんな要素、物差しが必要になる。
だから、一概に上がる下がると表現はできないような気がする。
じゃあ、なにで例えればいいか。
それは、お散歩である。
歩くのはエネルギーがいる。
楽をして、そのままお家にとどまっておきたい時もある。
もちろんその時間は大切だが、
ずっと家だと飽きる。
なぜなら見える世界が一緒だからだ。
よっこらしょと重い腰を上げて。
のんびりと散歩する。
寄り道をしたり、足元にいた花を見たり。
家にいるだけでは見えない世界を見ることができる。
私はこの見えなかった世界を見ることが成長だと思っている。
何もしなければ、一方向からしか世界を見ることができない。
でもえいやと、何かを勉強したり、なにか新しいことを始めると、
別に上に上がれるわけでもないけど
散歩のように別の角度、位置から違う世界を見ることができる。
これが成長だ。
だから、
社会が謳う成功のレールも
階段のようなものだととらえると、
失敗すれば階段から落ちてどん底だと思うかもしれない。
しかし、その”失敗”も実際は新しい世界との出会いなのだ。
”成功”した時とはまた違う世界と出会っている。
ぐるぐる散歩すると、知らなかった場所の道やお店がわかるようになる。
頭の中の地図ができる。
それと同じで、
挑戦や学びという散歩をすることで、世界への解像度が上がる。
俯瞰して世界を見ることができる。
そういう意味で、目線は高くなる。
これが視座が高いというのだろうか。
私はそうやって
上に上がることを目標にするのではなく。
平面方向にぐるぐる動くことで、
少しづつ目線を高くしていきたい。