10.14 世界標準の日
滞在中のホテルにて。
十四階のラウンジで朝食をとっていると、珈琲の湯気に住む妖精が話しかけてきた。
私はぼんやりと曇り空のオーシャンビューを眺めていたので、はじめはスタッフに声をかけられたのかと思った。
だが、あたりを見回してもクローズ間際の朝食会場のスタッフは開いた皿の片付けに追われていて傍にはいない。
手元のコーヒーカップに目を落としたところ、その湯気のなかに住む湯気の形をした妖精と目が合った。
「これはまた奇妙な」
私は小声で呟いた。一人で喋っていたら他の客に変な人間だと思われてしまう。
なので、熱すぎる珈琲を冷ましているていで息を吹きかける際に、こっそりと言葉を乗せた。
「奇妙なもんか。湯気が喋らないなんて、誰が決めたんだよ」
珈琲の湯気に住む妖精は、心外だとばかりに口をへの字に曲げて胸を張った。
「いやいや、この世界では湯気は意思を持たないし、喋ることもないよ」
私が周りを気にしながら告げると、湯気は少し声を大きくした。
「この世界って何だよ。お前が見ているちっぽけな世界のことだろうが」
「私の見ている世界は、他の人間も見ている世界だ。つまりは、普通の人間の暮らす、ごく一般的な世界のことだ」
ふぅふぅと息をかけるほどに、妖精は両腕を振り上げて怒りを露わにした。
「このじゃがいも野郎め。やはりお前はじゃがいもだったか。ぐだぐだしてないで、とっとと野菜室に帰りやがれ」
珈琲は冷めることがないのか、湯気がぼうぼうとあがっている。私はじゃがいもと言われて腹が立っていたので、強めに息を吐いて応戦した。
「失礼だな。誰がじゃがいもだ。喋る湯気なんて非常識ななりをしといて、よく人を莫迦に出来たものだよ」
今度は私が口をへの字にする番だ。
「じゃがいもだからじゃがいもと言ったのさ。どうしてお前が見ている世界が他の人間も見ている世界だと思い込んでるんだか知らないが、この世界にはお前は一人しかいないだろう。お前が見ている世界はお前だけのものなんだよ。気づけじゃがいも野郎」
妖精は唾を飛ばしながら力説する。呆れてものも言えないくらいだ。私は黙って灰色のオーシャンビューに目を転じた。湯気に似た色の空だ。
「では何か?あそこに浮いている船たちは、僕の世界では海に浮いているが、他の人間の世界では沈んでいるかもしれないと?」
今は、六艘の船が銀鼠の水平線に浮かんでいる。
「そりゃあそうさ」
「そんな莫迦な」
「莫迦はお前だ、じゃがいも野郎。だったらお前は他の人間になったことがあるのか」
そんなことある訳がないのだ。
しかし、私の世界と他の人間の世界で見えているものが違うと困る。
「私がこんな不自由な世界を創り出すものか。うるさい湯気おばけめ。消えてしまえ」
なかなか珈琲が冷めないので、私はポットに入ったコーヒークリームを全てカップにいれてスプーンで勢いよくかき混ぜた。
じゃがいも野郎めと声が聞こえたきり、珈琲の湯気に住む妖精は湯気ごと消えた。
私はふたたびオーシャンビューを眺め、変わらず浮かんでいる六艘の船を見ながらクリームたっぷりの胸やけしそうな珈琲を飲み干した。
部屋の前に戻ると、アイボリーの扉に金細工で831と打ってあった。
なるほど、野菜室とはこのことかと納得してから部屋に入り、私は昼までもう一度眠ることにした。出来ることなら覚めぬほど深い眠りにつきたいと思いながら。
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