12.6 麦の日・音の日
ビアバーのカウンターで、小綺麗な格好の女の人が頭を両腕に乗せて伏せていた。
俺は行儀悪くネクタイを外しながら店に入ったところで、目があったマスターにその女の人の隣に座るよう指示された。
「ビールひとつ」
マスターはにこりともせずにだまって頷き、俺の前を離れた。
きっと俺の顔は険しく、今にも苛々が爆発しそうな顔をしていたことだろう。
金を出さない相手との接待ほど営業として苦痛なことはない。たしかに昔は月に何百万と発注のあった大手だったかもしれないが、ここ十年近く市況が悪いとかで数字は縮小するばかりだ。
言っては悪いがすずめの涙ほどの額のくせに接待の要求が十年前から変わらないのである。
歴史を知る者たちにとっては今も大得意なのかもしれないが、現実主義者の俺にとってはビジネスの相手ではなく裸の王様以外の何者でもない。
マスターは小皿に載せたピスタチオと、背の高いグラスに見るからにクリーミーな泡立ちのビールを運んできて俺の目の前に静かに置いた。
口をつけるとあまりの抵抗感の無さに、滑るように三分の一ほどを飲んでしまった。
美味しいな、と思い緊張がほどけて、肩に力が入っていたことに初めて気付く。
あんなことに緊張して馬鹿みたいだ、と思いつつも二口目を飲んだらそれもどうでもよくなった。
仕事を離れてまで仕事に囚われる必要はない。その間の賃金は発生しないのだから。
「はぁ…」
それでも勝手にため息はもれた。身体は随分と疲れたようだ。
ピスタチオの殻を割りながら、見るともなしに隣の女の人の様子をうかがう。
艶やかに整えられた栗色の髪の毛は銀色の髪留めでくくられている。
背中と横しか見えないが、柔らかそうな生地の白いブラウスに淡色の花柄スカートが清楚な印象を持たせた。
書類が入るサイズの革鞄が隣の席に置いてあるところを見ると、どこかの会社員だろう。
仕事に疲れて飲んで酔いつぶれてしまったのかもしれない。
ピスタチオの殻を割り続けていると、女の人が顔を上げたので慌てて目線を逸らす。
女の人は隣に俺が座っていることにも気づかない様子で、グラスのビールを一気に飲みほした。
「マスター、ビールおかわり。活きのいいのを頂戴」
活きのいいビールとは何だろう。生ビールのことだろうか。俺が思わず吹き出すと、女の人がこっちを向くのが横目で分かった。
「すみません、つい」
素直に謝ると、女の人は「別にいいです」と明らかに別に良くない様子で言った。
マスターが無言で女の人の前にビールを置くまでにそれほど時間はかからなかった。
背の高いグラスにクリーミーな泡立ちの良いビールがなみなみと注がれている。
彼女の顔を盗み見たところ、まつげが長い栗鼠みたいな顔をしていた。あまり酔っているようには見えない。
そして彼女はビールに口をつけずにまたカウンターにうつ伏せた。
気まずい沈黙のあとで、彼女がぽつりと言った。
「音、聴いてるんです。ビールの泡が弾ける音を聞いていると、頭の中がスッキリするんで」
俺は「そうなんですね」と言う他無かった。四口で一杯目のビールを飲み干し、おかわりを頼む。
女の人はまだ泡音の世界に意識を集中させているようで、全く動かない。
二杯目のビールが届いた時に、俺は好奇心に負けて彼女の真似をしてそっとカウンターにうつ伏せた。
最初は店のBGMに流れるジャズしか聞こえなかったが、集中するうちだんだんとパチリパチリと弾ける音がかすかに聴こえ始めた。
一つの泡が生まれ、黄金色の液体を漂ってシュワリと消える、その無限の繰り返し。
どれだけの時間をそうしていただろうか。次に目を開けた時は、頭の中のモヤモヤが泡となって弾けたように気分が良くなっていた。
驚いて隣を見ると、女の人はもうビールを飲み始めていて、笑うでもなく俺に「ね、結構いいでしょう」と言った。
俺も少し呆然としながら「結構、いいです」と答えてビールを飲み始めた。
マスターは、今夜は変な客が来たなぁと思っているのかいないのか、無言でグラスを拭き続けていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?