8.9 ハグの日
大切な人を失って、何もやる気が起きない彼女を僕は、優しく抱きしめてあげるべきなのだと思う。
頭では分かっているのに、行動に移せないのは僕の本当に悪い癖だ。
「珈琲淹れるけど、飲む?いらないなら、いいけど」
彼女はパジャマでソファに横たわったまま、力無く首を横に振った。
本当は、ミルクとたっぷりの砂糖なんかを入れて、甘めのカフェオレでも作ってあげるべきなのだと思うけれど、結局僕はカップ一杯分の水しか珈琲メーカーに入れなかった。
「死んだ人は、どこに、行くんだと思う」
センチメンタル過ぎる彼女の質問を、僕は口の中で一回だけ転がした。
「どこにも、行かないよ」
コトコトと音を鳴らして黒い液体を抽出する様を凝視しながら言った僕の言葉が、彼女にどう伝わったのかは分からないけれど、彼女はそれに対して特に何も言わなかった。
死んだ人は、どこにも行かない。
灰と骨になって、そこにいるじゃないか。
魂がもしあるとしても、それは覚えている人々の記憶の中に存在するというだけのものだろう。
だからこそ、彼女の頭の中と、灰と骨としてそこに在るというしかない。
僕は、彼女の大切な人を知らない。
だから僕の中にはその人は存在しないし、僕の世界にはその人の骨と灰だけが存在している。
「どっかに、行っちゃえばいいのに」
彼女のつぶやきを僕は聞こえないふりをして、わざと大きな音を立てて食器棚から白すぎるカップを出した。
熱い珈琲を注ぎながら、僕の目は珈琲の見すぎで真っ黒に染まっていた。
真っ黒に染まった瞳から透明な涙が溢れたので、どこか冷静な頭の片隅にいる僕が不思議だなと思った。
「ねえ、いつまでそんな格好してるの。早く着替えなよ」
そう言って、珈琲を持って僕は部屋を出た。
本当は今すぐ戻って彼女を優しく抱きしめて、寂しさを吐き出させて、落ち着いた頃に甘いカフェオレを差し出すなんていうのが正解なんだろうけど、僕は素直にそんな事が出来ない。
悔しくて止まらない涙が、ただだらだらと頬から流れてフローリングの廊下に落ちていく。
今すぐ抱きしめて、全て僕の思い通りになればいいのに、どうしてそんな簡単な正解を僕は選べないでいるのだろう。
見てもいないのに彼女の失望した空っぽのまなざしが見えるようで、僕は強く目を瞑って熱すぎる珈琲を一気に飲み干した。
好きな人に優しくすることも出来ないで、ハグの一つも出来やしないで、何が愛しているというのだろうか。
それでも僕の足はまっすぐ玄関に向かって、空のカップを靴箱の上に置き去りにして、そのまま外へと逃げ出してしまった。