5.18 ことばの日
酸っぱいコーヒーの黒い渦に「あ」という言葉が落ちた。
「どうしたの」
急に固まった僕を見て、妻が怪訝な顔をする。
僕が落とした「あ」は、渦に巻かれまいとして手足を伸ばしてもがいている。
それをじっと見る僕に呆れたようなため息を吐いて、妻は珈琲を持って自分の部屋に引っ込んでしまった。
僕はこんな風に、時々渦のなかに言葉を落としてしまうことがある。
例えばトイレの水洗の渦、洗顔中の洗面所の渦、お風呂の栓を抜いた時の渦、大きいもので言えば社員旅行で行った鳴門の渦塩には船の上からいくつもの言葉を落としてしまって大変だった。
いつまでも動かずに溺れる言葉を見つめる僕に、幹事は大層焦っていたという。
力尽きたのか「あ」はばたつくのをやめて、静かに渦に流されはじめた。
酸っぱいコーヒーの黒い渦に、真っ赤な「あ」が流しそうめんみたいにくるくると回る。
慌ててらそれでも出来るだけそっと小指を突っ込むと「あ」は命からがら、と言った様子で僕の爪にしがみついてきた。
口元に持っていくと「あ」はぴょこんと僕にの喉奥に落ちてゴロゴロと鳴いた。
「あーあ。あ、あ。うん。いい感じ。今日はあだったから、あんこたっぷりの甘いあんバターパンでも作って妻の機嫌を取るとするか」
私は立ち上がって台所へ向かった。
珍しく機嫌がよく、鼻歌なんて歌ってしまった。
まさかその後であんこを温めている間に、あんこの黒い渦に「あ」が落ちてしまうとも知らずに。
僕の言葉は逃げやすいので、逃げない言葉を持つ人たちが羨ましくて仕方がない。
好きな言葉を好きな時に話せることは幸福なことなのだと、日本中の皆に肝に命じてほしい。
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