7.19 二千円紙幣発行
ようやく晴れたので、私は嬉しくなって大量の洗濯物を洗い、狭いベランダにめいっぱい干した。
窓を開けると青空の下の空気は、湿り気を帯びてミストサウナのようだったけれど、それに構うことは無かった。
天日で干せる。それだけで嬉しい。
正直なところ、私は最近日光不足で全身が腐りかけているような気がしていた。
部屋干しした衣服は柔軟剤臭く、部屋の中の空気は気怠く湿って、食べ物もすぐ腐ってしまいそうで気が気ではない。
髪の毛はくせが強く出てぐねぐねと歪み、頭皮もすっきりしない日々が続いた。
体が快適ではないと、心も病んでいく。
「もういい、もうやめてくれ」と私は重く冷たい肌掛け布団の中で毎日呪いの呪文のように同じ言葉を繰り返していた。
待ちに待った晴れの日に、とにかく午前中に洗えるだけの洗濯物を洗った私は、調子に乗ったテンションのまま部屋の掃除をして最後にハッカ油をそこここにふりかけて部屋中に爽やかな空気を取り込んだ。
「まだ、一時前。早起きしてよかった!そろそろ行くかな」
半袖の白いTシャツに、お気に入りのデニム。
カゴバッグには財布と携帯と鍵だけを入れて、アイランドスリッパーを突っかけて外に出る。
これだけの軽装で外に出られる日が来たことを体中が喜んでいた。
カフェテラスで冷たいアイスティーを楽しむご婦人、私と同じような軽装で犬の散歩をする女の子、背広を脱いで肩にかけて歩くサラリーマン。
世の中は昨日までと打って変わって、夏の装いになっている。
急ぎ足で仕事に戻るOL達を横目に、私は優雅にお気に入りのイタリア系のカフェに入った。
店内は冷房が効いていて、途端に生き返った心地がする。
窓際の席を選ぶと、明るい日差しの当たるテーブルに店員がレモン水とメニュウを置いて離れた。
レモンと白身魚のパスタに桃のシャーベットとホット珈琲をつけた。
いくら外が暑くても、冷えた店内でアイス珈琲を頼むのは自爆行為な気がした。
料理とデザートを食べ終え、ホット珈琲を飲みながら日差しを浴びる。
「幸せだなぁ」
自然と笑みがこぼれて、何だか自分がオシャレ雑誌の一ページになったような錯覚まで覚えた。
「お会計お願いします」
帰りにはちょっといいスーパーで、普段は買わない野菜や高い生ハムなんかを買って初夏の夕べを楽しもう。
伝票が来て財布を開く。
私は驚いた。
お札が、一枚も入っていない。
店員はにこにこと微笑みながら私の財布からお金が出てくるのを大人しく待っている。
「あ、あの…っ、すみません?ちょっと先にお手洗い行ってきてもいいですか?すぐ、すぐ戻るんで…」
顔を真っ赤に染め、冷や汗を流し、及び腰のまま店内のトイレに駆け込む。
「やばい。やばいやばいやばい。いいオンナ気取ってる場合じゃなかった。金がない…!」
絶望の淵に立たされた私は、鞄からポケットから財布から、ありとあらゆる場所に探りを入れ始めた。
店員にすぐ戻ると言った手前、あまり長居をしていると怪しまれるだろう。
「あっ、これは!」
私が見つけた蜘蛛の糸は、小さなポチ袋に丁寧に折りたたんで入れた二千円紙幣だった。
「た、助かったぁー」
いつか価値が上がるかもしれないと、財布の一番小さな仕切りの中に入れておいたお金だ。
まだ二千円の価値しかないが、千五百四十円のランチ代を払うには十分である。
私は晴れやかな顔でトイレを後にし、晴れやかな顔のまま代金を支払い、晴れやかに店を後にした。
しかし、銀行のATMでお金を下ろしながら、たった一枚しか持っていない二千円紙幣をあんな事で使ってしまったことへの悔しさが込み上げてきて、戒めとして帰りはいつものスーパーで安い惣菜と発泡酒を買って帰った。
夕方には洗濯物は乾いていたし、クーラーの効いた部屋の魔法か、安い惣菜も安いお酒も大変美味しくいただくことができたので、本日は結果オーライとすることにした。
夏はまだ始まったばかり。
楽しみはこれからまた増やしていけばいい。
じりじりとした暑さが、ようやく日本列島を包みこみ始めている。
7.19 二千円紙幣発行
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