7.25 かき氷の日
近所の公園で夏祭りをやるらしい。
手書きのポスターにはイラスト付きで、かき氷を無料で配布しますと書いてあって、苑子はそれを携帯のカメラで収めた。
うだるような暑さの中、毎日毎日課外授業に通っている。
受験生の夏がこんなに暑いというのは、何だか他の国の受験生達よりも不利な気がしてしまう。
結局戦う相手は国内にしかいないのだが、何にでもいいから不満を言いたくなるような、そんな暑さなのだ。
夏休みの高校はいつもよりも人が少なくて、廊下を歩いているとパラレルワールドに迷い込んだような錯覚を覚える。
野球部のかけ声、吹奏楽部の少しずれたハーモニー。
その合間にぽつりぽつりと配置された進学校受験生と、赤点を取った補習授業の生徒たちの特別クラス。
学校の空気は気怠くて、透明で温い寒天の中にいるようだ。
苑子は進学校受験の課外授業クラスに入る前に、二つ離れた教室を覗いた。
教室の中にはまだ一人しかいない。
窓際の、一番前の席に座っているふわふわパーマの頭を見つけて、苑子は一度胸の前でぎゅっと両手を握った。
そして二つ深呼吸をすると、勢いをつけてその席へ向かう。
「京極くん、おはよう。早いね」
目を閉じて音楽を聞いていた京極くんが、苑子の声に眠たげに苑子を見上げる。
ふにゃりと笑った顔が、苑子の胸を射抜いた。
「おはよう、郡司さん。どうしたの?今日夏休みだよ」
どうやら苑子が間違えて登校してしまったと思っているようだ。
京極くんは、マイペースでぼんやりしている。
自分の半径三メートルの世界で生きているような人なので、進学校受験のための特別クラスがあることは知らないのだろう。
「私は別に課外があるんだ。京極くん、ちゃんと課外来ててえらいね」
「うん。俺バカだから、夏休み減っちゃったんだ。残念だけど、でもしょうがないね。先生たちも教えるのが仕事だから」
耳からイヤフォンを外しながら、京極くんが恥ずかしそうに目を伏せた。
苑子は勢いよく首を横に振った。
「京極くんはバカじゃないよ。たぶん頭が良すぎていろんなことが気になっちゃうから、みんなと同じようにならないだけだよ。素敵だと思うよ」
つい熱弁してしまって、今度は苑子が照れる番だった。
京極くんはちょっと目を丸くして驚いていたけれど、またふにゃりと甘い笑顔を見せた。
「ありがとう。そんな風に言ってもらったのは初めてだな。あ、そういえば、何か俺に用事だった?」
子犬のように首を傾げる京極くんの目を見ていられず、苑子は綺麗なアーチを描く眉毛のあたりを凝視しながら夏祭りのことを話した。
「京極くん、かき氷好きだって言ってたから、良かったら今日の夕方行ってみるといいかなって」
一緒に行こう、という言葉は出なかった。
せっかく撮ったポスターも、何となく見せられなかった。
京極くんが夏祭りに行ったところに偶然を装って出向くしかないと、苑子は考えていた。
「わあ、いいね。こう暑いとかき氷がより美味しく感じられそう。情報ありがとう」
京極くんは行くとも行かないとも言わず、にこにこしながら頭を揺らしていた。
「あ…うん。じゃあ、課外頑張ってね」
別の生徒が入ってきたのを見て、そそくさと苑子は京極くんの席を離れようとした。
その足を止めたのは、京極くんの一言だった。
「うん。じゃあまた後でね」
また後で、とは?
クエスチョンマークを浮かべながら、予鈴に背中を押されるように苑子はそのまま走り出した。
課外授業中も、京極くんと夏祭りとかき氷のことで頭がいっぱいで集中出来なかった。
その日、苑子と京極くんは夕暮れに染まる神社の境内を二人で歩いた。
たくさんの出店を眺めながら、後であれも食べたいね、盆踊りもまたやるのかな、なんてたわいもない会話をしながら、苑子の心臓ははちきれそうになっていた。
「あ、あれ。かき氷もらいに行こう」
かき氷を配布しているテントを見つけた京極くんが、苑子の手を取って走り出す。
こんな少女マンガのような展開が自分の身に起きることを想定していなかった苑子は、幸せすぎて頭がオーバーヒートを起こした。
ほとんど何も見えず、目を白黒させているうちにかき氷を持っていた。
急に無言になった苑子の横で、京極くんはイチゴ味のかき氷を美味しそうに口に運んでいる。
日が沈んで、屋台と提灯の明かりに照らされたふわふわパーマの京極くんの横顔はとても綺麗だ。
苑子の視線に気づいた京極くんが、赤くなった舌を出して見せたので、苑子は暑くなった頬を自分のメロン味のかき氷で冷やすことにした。
遠くでお囃子の音が聞こえる。
もしかすると、この暑すぎる夏の終わりには、自分も思いもよらない展開になっているかもしれないなどと、淡い期待を抱きながら、熱くなりすぎる体に緑の氷を入れて冷ますのが精一杯だった。
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