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9.6 黒の日・妹の日・黒豆の日

妹は、ただそのつるりとして甘い黒豆を食べただけである。ただそれだけで、妹はこんなことになってしまった。
「春子ちゃん、どうしてこんなことに…」
薄暗い畳敷きの四畳半には、布団の上で横たわる妹と泣きじゃくる母と、黙って妹の手のあたりを見ている私がいる。
「一郎さん、どうしてこんなことになってしまったの」
母は私のセーターの裾を強く掴んで揺さぶった。私は口を開けなかった。説明する言葉を持たなかったからだ。
妹は、黒豆を食べただけなのである。私のことを好いているという奇特な女性が炊いた黒豆を。
「春子ちゃん、春…」
母の鳴き声は、絶望の大きさと反比例して小さくなっていった。妹は異様な姿から、医者に連れて行くことも躊躇われた。そもそも素人の私たちの目から見ても、医者にどうにか出来るものでもないように思われた。
「真っ黒、もう、治らないのかしら」
母は妹の髪の毛のあったあたりを震える手で優しく撫でた。妹の髪の毛は、艶のある黒髪で、それというのもいつも寝る前に柘植の櫛で丹念にすいているからなのだった。
妹は、ただ黒豆を食べただけなのだ。
次の朝にはもう昏睡状態で、顔も身体も耳の先までつるりとした黒豆のようになってしまっていた。もしかすると、これは何かの悪戯で目の前のつるりとした黒い何かは割ってみれば黒豆なのではないかとも考えた。だが、万が一妹だった場合、切った箇所はどうなるかと思うと怖くて割るなど出来ない。
結局は、妹か黒豆かも確かめられぬまま狭い四畳半で半分狂った母と共に妹らしきものの姿を見守っていた。
頭のあたりをぱかりとしたら、白い豆の断面が見えるかもしれない。そうしたら、妹はどこか別の場所に移されてそこで元気にしているかもしれない。
「一郎さん、一郎さん」
母の声はもうほとんど外の虫の声にかき消されて聞こえない。
黒豆を与越した主の、私を好いているという奇特な女の顔はもう思い出せず、記憶の断片を搔き集めるとそこに浮かぶモンタージュは黒く甘いつるりとした豆の顔になるのだった。

9.6黒の日、黒豆の日、妹の日
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