11.1 生命保険の日・犬の日
「残念ですが!あなたは!先ほど午前十一時一分を持って!お亡くなりになりましたぁー!」
量販店で売っているようなチャチなクラッカーを鳴らして、白い服を着た女が楽しげに叫んだ。
暁が目を覚ました場所は、固く白い綿のようなものが一面に敷かれ、やたらと眩しい場所だった。
「…は?」
女は艶やかな長い黒髪のてっぺんに黄色い輪っかを載せ、ノースリーブのワンピースから折れそうに細く白い腕を伸ばしていた。
切り揃えた前髪の下の小動物なみに黒目がちな瞳に赤いマスカラのまつげが映え、ピンクのグロスをまとった唇は妖艶でつい見つめてしまう。
一目見て、昨日の朝にテレビで観たアイドルに似てるなと思った。グループのうちの一人だったので名前までは分からないが清楚な感じだ。
「早乙女暁さんですよね?平成二年、十二月三日生まれ。静岡出身で母親の名前は貴美子、父親の名前は努…ん?どうしました?」
必死に両手で顔をこする暁に女は首を傾げた。
「いや、可愛い…じゃなくて。すごいですね、その羽本物みたいだ」
女の肩甲骨のあたりからは、真っ白い鳩の翼みたいなものが生えていた。
まだ自分の置かれた状況は把握できないが、女の姿についてはよく出来た仮装だと感心することができた。
「羽?これ、本物ですよ?」
「…またまた。確か俺は昨日の夜ゾンビの警察官の仮装をしてハロウィン限定婚活パーティーに参加してて…あ、もしかして」
もしかしたら、ここは最先端のコンセプトホテル的なやつで、俺はこの美人な女とカップルが成立したのかもしれない。そして一夜を共に…と考えたところで暁の上に雷が落ちた。
「いってぇ!」
「駄目ですよー!天国の前で不埒なことなんか考えたら!」
女は暁を指差して口を尖らせた。
「何なんだよ不埒なことって。こんなとこで考えない方がおかしいだろうが!」
暁は痺れる身体をさすりながら抗議をすると、女の眉間のしわが深くなった。
「現実を受け入れなさい!あなたは先ほどお亡くなりになりました!今朝方の記憶まで巻き戻してごらんなさいなっ!」
女は人差し指で暁の額を音が出るほどに小突いた。
すると、暁の目の前にスクリーンが登場し、猛スピードで記憶が巻き戻っていく。
再生されても何故か三倍速くらいのスピードだったが、早足の映像でもなんとか内容を把握することは出来た。
「ん?いや、えっと、つまり?」
婚活パーティーでカップル成立に失敗した暁は、ハロウィンで盛り上がる街に飛び出して酒に飲まれた。飲まれて飲まれて飲まれすぎて、いつしか時は過ぎ、記憶を失い、そのまま急性アルコール中毒で帰らぬ人となったということだった。
「そんな、馬鹿な!」
頭を強く振ったら目の前のスクリーンは消えた。そんな馬鹿な話はない。まだ若く、賃貸マンションには飼い犬もおり、彼女はおらず、昇進もしておらず、つまりまだ死んでいる場合ではない状態だ。
「大体急に亡くなった方はそう言いますね。そんな、馬鹿な!って。下界で流行ってるんですか?」
「下界って何だよ。茶化すなよ!」
混乱して取り乱しはじめた暁の口に女はむりやり紅いキャンディを突っ込んだ。
「これでちょっとは落ち着けるはずです!今は時間が無いので話を聞いてくださいな!私は見た通りの美人すぎる天使ちゃんです!そしてあなたは先ほど死んだ早乙女暁さんの魂!でも、あなたは本来進むべきルートをおおーきく外れて今ここにいます!」
甘くて酸っぱいザクロ味のようなキャンディを舐めていると、確かに動悸の激しさがやんだ。
女が翼を勢いよく広げて熱弁しても、夢かなと思うくらいで落ち着いて見ていられる。
「天国には行けないって事ですか?」
「いえ、それとも違います!」
女は真面目な顔で暁の身体中をぺたぺたと触りはじめた。
「いや、ちょっとこんな時にって痛いいたい!」
女は暁のうなじを急に強く引っ張った。
「ありました!これだ!」
髪の毛を一本引っ張られているような痛みがやまず、暁は頭を抱えた。
「何なんですかっ」
「見つけましたよ!あなたのルートが大幅にずれた理由!あなた、タグ付きでした!」
女は珍しいものを見つけたとニコニコしながら、暁のうなじを観察している。
「タグ?」
暁はもう痛さに耐えかね涙目である。紅いキャンディは強い引きに思わず飲み込んでしまった。
「そうです!あなたに命を救われたことがある者が、あなたに生命保険をかけてます!いやー、愛されてますね!自殺や寿命じゃなく事故なんで、一回だけ生き返れますよ!」
「生命保険?誰が?」
急激に女の姿が歪みはじめた。ふわふわと気持ち良い感覚に襲われる。
「あなたの心に一番近い人みたいですよ!あっ、寝ないでくださいよ!生命保険を適用するキーは、その人の名前を叫ぶことです!度々ですが、愛されてますね!今寝たら、肉体の期限に間に合わないですよぅ!」
そうは言われても、抗いがたい眠気がパンチを打ち続けてくる。確証はないが、紅いキャンディのせいだと思う。
「早乙女さん!さーおーとーめーさんっ!こんなところで死なれちゃ私減点されちゃいます!名前だけでもー!」
暁は最後の力を込めて、何かの名前を呟いたが、あまりに意識が混濁していたので何と言ったかは覚えられなかった。
胸が痛い。圧縮機でプレスされているように呼吸も苦しい。
「死ぬ…」
いや、死んだのだ。悲しい現実に暁は目を閉じたままほろりと涙を流した。
目元が熱い。そして生温い。まるで、生きているように。
「…くさい」
ここでようやく暁は違和感に気づき、ゆっくりと目を開けた。
けむくじゃらの何かが生温かい息を顔じゅうに吐きかけながら涙をべろべろと舐めとっていた。
「十郎太!」
十郎太は、賃貸マンションで飼っている長毛の雑種犬だった。中型くらいになるはずが、捨てられ栄養が足りなかったために大きくなれずにいる。暁は拾ってすぐに、強いオスになるよう十郎太という武士のような名前をつけていた。
十郎太は、ぴったりと暁の胸の上に伏せ、目を覚ました暁を嬉しそうに見つめている。
「まさか、お前が?」
部屋を見回すと、ベッド脇に脱ぎ捨てたゾンビの警察官の衣装が十郎太の手によりさらにアバンギャルドに引き裂かれていた。
「あれ?何だっけ。何かの夢を見てたような。っていうか、なんかデコが痛い…転んだかな」
痛む額を抑えながら、暁は冷たいシャワーを浴びようと十郎太を押しのけてバスルームに向かった。
十郎太は一声鳴いて、昨日のハロウィン衣装をさらにアバンギャルドにすべく歯を立てはじめた。
ポケットから転げ落ちた紅い玉は、暁に見つかることなくそのままベッドの下へと消えていった。