1.16 禁酒の日・囲炉裏の日
竹筒からあふれ出る透明な泡。
じゅくじゅくと音を立てて、竹そのものの温度が上がっていることを主張している。
「いやー、今夜は冷えますね」
炭の世話をしながら老主人がにこやかに話しかけてきた。
この古民家を改装した宿に泊まることになったのは、まったくの偶然である。
私はライターの仕事をしていて、今朝から山奥にある寺の取材に来ていた。
思わず話に花が咲き陽が暮れかけてきた頃、車で帰るにはこの山は深すぎて夜になると道に迷う者が多いのだと聞き、近くにあるこの宿を紹介された。
確かにこの山道は途中から舗装もガードレールも無く、外灯も無いので陽が落ちれば真っ暗闇になるだろう。
私のおんぼろ車のライトと運転技術では心もと無かったので、すぐに電話を入れて予約をさせてもらった。
私を迎えたのは人の良さそうな老夫婦で、オフシーズンで週末でもないので大した準備も出来ませんが、と恐縮されたが私は温かい布団で眠れるだけでも十分有り難いと伝えた。
中にはいると、木の香りがした。
玄関を過ぎたあたりに囲炉裏があり、魚の形の横木がついた自在鉤に鉄瓶がかかっていて風情がある。
客室は古いが畳は張り替えてあるし、家財道具もアンティークの趣があって落ち着く。聞けば、寺の檀家が泊まりにくることが多いのだそうだ。
部屋で出された緑茶を飲んでいるうちに、寒さと緊張から解放されて眠くなりだした。
早朝から慣れない車を運転してきた神経の疲れがあるのだろう。明日も早くにここを出て帰らなければいけない。
下りの山道は思うよりスピードが出やすいので用心が必要だ。
船をこぎ始めた頃に夕食に呼ばれた
。
囲炉裏にかかっていた鉄瓶は芋煮の鍋にすげ替えられて、もうもうと白い湯気をあげている。
私はその鍋の他にも手作りの豆腐や干して保存していたという山菜の煮物、川魚の薫製などに舌鼓を打った。
都会育ちの私にはどれも珍しく、またどれも滋味深く、普段インスタントで済まされがちな私の可哀想な五臓六腑に染み渡った。
「お兄さんは、お酒はやらないですか」
老主人がえびす顔で持ってきたのは、口を斜めに切った竹筒と日本酒の一升瓶だった。
「この筒に日本酒を入れて囲炉裏でお燗にすると、竹の油が出てまろやかになって旨いんですよ。私は毎晩これを飲むのが楽しみでね」
私は主人の誘いに逡巡した。
明日の早朝に車を運転することを考えると、今晩は酒を飲まない方が良い気がする。
「いや、私は。どうぞ構わずお飲みください」
出来るだけ酒瓶を見ないようにして丁重に断った。
「ああ、飲まない方でしたか。これは失礼しました」
そう言って、老主人は竹筒になみなみの日本酒を注ぐと、それを囲炉裏の端のあたりに刺した。
最初は世間話などをしながら気を紛らわせていたのだが、ふつふつと酒が沸いてくるとどうにも気になる。
勝手に目線が竹筒で頃合いよく温まっていく酒に行ってしまうのだ。
何と言っても、私は酒好きなのであった。
竹の断面からじゅわじゅわと泡が出てくる。うっすらと細い湯気の筋が見え始める。
「お兄さん、どうなさいましたか」
私が途中から返事をしなくなったので、老主人が心配して訊ねてきた。
「あ、ああ。いえ、あの」
私が竹筒の日本酒を穴があくほど見つめていたので、そこで老主人も私の心情を察したようだった。
「大丈夫ですよ。一杯くらい飲んだところで、寝付きも良くなるし朝には抜けます。何なら後でお水も差し上げますよ。安心してください」
えびす顔をさらにほころばせて、老主人は私に竹の節を使って作った椀を手渡した。
「そ、そうですか?まあ、そういうことでしたらご相伴にあずかります」
きっと私もえびす顔になっていたことだろう。老主人の誘いを待っていたような節もある。
老主人は右手に炭で汚れた軍手をはめると、竹筒をつかんで私の椀に温まった日本酒を注いでくれた。
日本酒独特の甘みのある香りが湯気と共に上がって鼻孔をくすぐる。少し傾けると、とろりと黄みがかっているのが分かる。
「では、今日の出会いに」
老主人の粋な合図で我々は杯を交わし、短い酒宴を始めたのだった。
竹筒で温められた日本酒は確かにまろやかで甘く、さらに老主人の控えめな優しさも相まって私の心と体を温めてくれた。