4.8 参考書の日・忠犬ハチ公の日
春は呼ばずともやってくる。
そして、電車も然り。
瓜生兄は、渋谷でおなじみハチ公の銅像前で半袖シャツに短パンというもはや初夏を先取りしたようなちょっとアホみたいな風体で立っていた。
駅口から押し出されてきた乗客のなかに紛れていた瓜生妹は、そんな兄の姿を見つけるやいなや、地球上に存在するうちでもよほどの苦虫を噛んだような顔になった。
「あ、いた」
瓜生兄が肩まで伸びた髪を耳にかけながら逆側の腕を上げると、瓜生妹が人波をかき分けながら競歩ほどの早さで兄に近づき、アホっぽく掲げた腕を手刀ではたき落とした。
「痛え!」
「うるさい、このイカレポンチ!いま何月だと思ってんだバカ兄貴」
「何だよー。四月でしょ、だからお前が群馬のど田舎から東京に上京してきたんでしょ」
鼻息を荒くしている瓜生妹は、水玉のワンピースに格子柄のトレンチコートという、瓜生兄にはお洒落なのかそうでないのか判別しかねる服装をしていた。
肩から提げた大きな黒い鞄だけがスポーツバッグのようでやたらと違和感がある。
「ねえ。その鞄変だよ。お兄ちゃんが入学祝いに買ってやろうか」
鞄を指して言うと、妹に強くすねを蹴られた。
「何でお前はそんなに攻撃的なんだよっ」
「兄貴にデリカシーが無いからだろうが。稼ぎが少ないくせにいい格好しようとするんじゃないよ。これは参考書買って帰るために、わざわざ大きい鞄持ってきたの!」
瓜生妹が肩を少し上げて鞄をアピールした。
参考書を買うのになぜ大きい鞄が必要なのだ。どれだけ買うつもりなんだ。兄には分からない世界だった。
「なぜだ。わざわざ東京まで来て、お前は一体何をするつもりなんだ?」
「勉強に決まってるだろうが!」
合流してから五分弱。
さっきから妹の方は眉間のしわが深くなっていくばかりだ。
瓜生兄の想像では、初めてのハチ公にキャッキャと喜ぶ妹をハチ公と共に写真に収めてやる予定だったのだが。
わざわざ東京まで出てきてもはしゃがず、遊ばず、大学で購入する教科書だってあるはずなのに、わざわざ金を出して本屋で大量の参考書を買う瓜生妹の考えていることは、道楽者の兄にはさっぱり分からなかった。
瓜生兄は田舎から出てきて羽を伸ばして遊びすぎ、堂々と留年したクチだ。
ようやく内定をもらった会社も給料がすこぶる安く、もしかしてこれはブラック企業というやつなのだろうか?と最近ぼんやり思っているが、彼女もいないし未来設計もないのでとりあえず生きていられればいいという精神と転職とかめんどくさいという現状維持第一主義から、のんべんだらりとこのせわしない都会の隅っこの方で生きている。
「勉強?わざわざ東京まで来て、どうして?」
「お前みたいになりたくないからだよ!兄貴こそ大学で何してたんだって話だ」
「はー、なるほど」
随分しっかりした妹を持ったものだと瓜生兄は感心した。
怒るところなのかもしれないが、至極まっとうな願望に思えて、瓜生兄はただ納得してしまった。
「とりあえず、ハチ公前で写真撮る?」
「撮らない。まずパンケーキを食べたい」
「おお。女の子らしくて大変よろしいな。参考書はどうするんだ?」
「帰りに買わなきゃ肩が千切れちゃうでしょ。いいから早くパンケーキに案内して」
瓜生兄は渋谷でパンケーキなど食べたことが無かったので、当然店など分からずやみくもに歩いて妹に怒られた。
結局瓜生妹がスマートフォンで検索した店に兄が連れて行かれるという形になったのだが、その店はハワイモチーフの店だったので半袖短パンの瓜生兄の格好がたまたま店員とかぶり、何度かお客さんに注文を頼まれそうになった。
瓜生兄は、久しぶりに喋る妹のしっかりさに関心しながら、紆余曲折あって目の前に運ばれてきた心許ないふわふわのパンケーキを口に運んだ。
ふわふわすぎて、本当に心許なかった。
一口食べて「兄貴みたいな食べ物だな」と妹が呟き、「俺もそう思うよ」と兄が答えたので、二人は顔を見合わせて笑った。
瓜生兄と妹は、性格はまったく違うように思えるが、何だかんだウマが合い仲のよい兄妹なのである。
4.8 参考書の日、忠犬ハチ公の日
#小説 #参考書の日 #忠犬ハチ公の日 #上京 #渋谷 #JAM365 #日めくりノベル #おやつ