8.5 タクシーの日
百貨店で買い物をして外に出ると、夕立が強く石畳を叩いていた。
僕は傘を持っていなかったので、玄関近くのタクシープールで黄色いタクシーに乗り込んだ。
激しくフロントガラスを叩いては流れる雨に歪んだ町並みの中に、その一台が滑り出すと、運転手はラジオから流れるピアノ・コンチェルトの音を絞って行き先を訪ねた。
「駅裏の方までお願いします」
「はい。203号、実車」
それ以降、運転手は黙った。
僕は、このタクシーは当たりだと思った。
僕の住むマンションまでは、ほとんど十五分くらいだ。
いつも歩いて通る道とは違って、車では線路を越えるために陸橋を渡るルートだ。
乗り物に乗ると、僕は頭の中がうるさくなる。
そして、雨の日は心が静かになる。
だから僕は、雨の日に乗る乗り物が一番好きだ。
雨粒に揺らいだ世界は、いつもより色喧しくないので落ち着いて考えを遊ばせることができる。
僕は眠りの淵のような雨の中の世界を移動しながら、ただただ頭の中に喋りたいことを喋らせた。
雨粒と世界の関係や、通りがかりの女性の傘がどこかで見たことのある模様であること、胡瓜のほとんどが水分であるのに何故みんな河童のように胡瓜を食べ続けるのか、高校の時の同級生の名前、取れかけたボタンがどの服に付いていたのか。
大抵どうでも良い、だけれど世界のどこかには存在している小さな出来事を頭の中に走らせる。
僕は駅のホームで何本もの通過列車を見送るような気持ちで、その考え事を眺めていた。
うるさい頭でする考え事は、それくらいのスピードで僕の目の前を走り去っていくのが常だ。
マンションのエントランス前まで車を寄せてもらって、料金を支払ってタクシーを降りた。
最後まで運転手は顔を見せず、降りるときも「ありがとうございやした」と気怠そうに一言呟いただけだった。
僕にとってとてもいい運転手だったので、僕が部屋に戻る頃には頭の中はすっきり整理され、気分がよくて無意識にピアノ・コンチェルトの鼻歌なんかを歌ったりした。
雨はまだ降り続き、タクシーはきっと次の客を乗せて曇り空で仄暗い街のどこかを走っていることだろう。
非日常を楽しむための小旅行に金を使うのも悪くない。