9.10 屋外広告の日・世界自殺予防デー
大きな破裂音が響いて、Mは反射的に音の鳴った方に顔を上げた。
白い屋外看板に、翼を広げた鳩の跡がくっきりと残っている。
コンクリートの地面に目を移せば、脳しんとうを起こした鳩が何度も痙攣を繰り返していた。
そして、もう一度看板に目を向ける。
「何だ?この看板」
Mは眉をひそめた。それは三畳ほどの大きさで、力強い墨の文字で『あなたは死にたがりですか?』その下に『←YES・NO→』さらにその下に『(有)死にたがりの国』とだけ書いてあった。(有)は有限会社の(有)であろう。
Mは、その看板に向かって唾を吐きたい気持ちになった。死にたがり、という言葉が癪に触ったからだ。
「誰が死にたくて死ぬっていうんだ。ふざけるな」
死にたくて死ぬんじゃない。死ななきゃ生きていけないから死ぬんだ。Mはまた、地面に目を落とした。
最近は、外を歩く時もずっと下を向いている。人と目が合うのが怖い。どんな風に思われるのか。目が合ったらどんな対応をするのが正解なのか。
いつも誰かに監視されているような気がして、Mは他人と絶対に目が合わぬよう靴元を見て歩く癖がついた。
目的地もなく歩を進める。Mが進んだ先は、『NO→』だ。選んだわけではなく、最初からその道を進もうとしていた。
しばらく歩く間、何人かの足元とすれ違った。ハイヒールのOL風の女と、スーツの男、ベビーカーと母親のスニーカー。
OL風の女はストッキングのくるぶしのあたりに丸い穴が空いていたし、スーツの男の両膝は地面についたように汚れていた。母親のスニーカーは、溶けたチョコレートのアイスで茶色と白の染みが出来ていた。
Mは自分の色の抜けたデニムと、ネット通販で買った下ろしたてのナイキのスニーカーを見て、満足気な気持ちになった。俺より、あいつらの方が苦労しているのだと。
曲がり角を右に曲がろうとしたら、引き止めるようにまた破裂音がした。反射的に目をあげれば、今度は黒い看板に白く鳥の跡がついていた。先ほどの鳩よりも大きい跡だ。コンクリートの地面に目を落とすと、カラスが脳しんとうを起こして痙攣を繰り返していた。
「だから、何だってんだよ」
Mは、通行人にバレないように小さく舌打ちをした。
今度は黒い看板に白く弱々しい書体で『ほんとうのあなたの希望はどちらですか?』と書かれ、下の段には『←死にたい・消えたい→』その下の段にはまた『(有)死にたがりの国』と社名が載っていた。
通行人は誰も看板など見ずに足早に通り過ぎていく。まるで、周りの風景など見ている時間はないというように。
Mは、自分が透明人間になったような気持ちでそこに佇んだ。通行人は、Mの事も見ていない。この気味の悪い看板のように。
今まで誰とも目を合わせたくなかったが、あることを自覚した途端に息苦しくなった。
この世界で息をしているはずの俺は、今誰にも認識されてないのかもしれない。コンビニでポテトチップスを買っても、牛丼屋でネギだく牛丼を頼んでも、滞納した家賃の取り立てに来られても、奴らはみんな五分後ないしは一時間後には目の前から消えた俺の事を忘れるだろう。それは、世界に認識されていないも同じではないだろうか。じゃあ、自分以外が認識してない俺は、ここに存在していると言えるのか。
立ち尽くすMの肩に、スマートフォンを操作しながら歩いていたサラリーマンの鞄がぶつかった。
サラリーマンは、立ち止まっているMを見て、とても迷惑そうに顔を歪めると、舌打ちをしてそのまま歩いていった。
ちくしょう、とMは思った。俺の事を下に見ているから、あいつは俺の顔を見てあんな顔をして舌打ちまでしたのだ。
ちくしょう、ちくしょう。二分後には俺を忘れるあいつのせいで、俺は何日かあの顔を思い出しては暗い気持ちを引きずるだろう。
Mは『消えたい→』を選んで歩き出した。両手はポケットに突っ込んで、肩を揺らして歩く。先ほどのサラリーマンの顔がちらついては、ちくしょう、ちくしょうと心の中で繰り返した。
しばらく道なりに歩いていると、何かに頭を強く打ち付けた。
「いってぇ…何だってんだよ!」
噛み付いた先にあったのは、大きな屋外看板だった。足元しか見ていなかったとはいえ、まさか道の真ん中に急に看板が出現するとは考えられない。
妙に丸文字のふざけたフォントで『(有)死にたがりの国』と書かれているのが目に入った。
看板は巨大すぎて文字が読めず、行き先も塞がれたMは後ろに下がって看板の全景を確かめた。
『消えるならどちらがいいですか?』その下には『←まっ暗闇・真っ白→』と、書いてある。だが、矢印の先には道はない。一本道の、今は袋小路の状態で、もちろん通行人もいない。
「あぁ、夢か。はは、だからこんなありえないことばっかり起きてるのか」
現実であるわけがない。そもそもMは家から出ることはほとんどない。こんなに遠くまで自力で歩いてくるわけがないのだ。自分にそう言い聞かせて、Mはこの夢を楽しむことにした。
「暗闇なんて、真っ平ごめんだ。つまりはお先真っ暗じゃないか。ただでさえ先が見えない生活で、もうお先真っ暗はこりごりなんだよ!」
看板に向けてそう怒鳴りつけると、瞬きをする間に看板の文字が変わっていた。
『真っ白でいいですね?』そして、『YES・NO』の二択。Mは迷わずYESを選んだ。
「YESだ!YES、YES、YES、YES!」
どうせ、夢なのだからとMはたかを括っていた。
次にMが瞬きをする間に、建物も、道路も、看板も、全てが消えて真っ白な空間になっていた。
「え、何だこれ」
小さな点も見えない、何もない真っ白な空間。どこまでも続く白は、明らかにこの先に何もないを映している。
「冗談だろ」
上げたはずの手が見えない。色の抜けたデニムも、ナイキのスニーカーも、胴体も足もなにもかも。
「看板は、看板はどこだ、次の選択肢は」
しかし、あたりにはただ清廉な明るい白が続くばかりで、どこを見渡してももう鍵となる看板も、鳩も、カラスも見当たらないのだった。