6.4 蒸しパンの日
白くて柔らかい岩のような蒸しパンが台所に積んであるのを思い出したのは、熱のある体を布団に横たえている時だった。
「蒸しパン…か…」
その異変を異変と認識したのは午前十時を過ぎた頃だった。
「先輩顔色悪くないですか?」
「ん?」
実は朝から少し体調が悪いのを感じていた。通勤途中もやたらと汗をかき、会社へ向かう道がいつもより何倍も長く感じられた。
「そうなんだよ。認めたくないからまだ測ってないんだけど、熱があるかもしれない」
額や首の裏に会社の自販機で買ったミネラルウォーターのペットボトルを押し当てて熱が下がるのを待っていたが、昼に近づくにつれてどんどん悪化している気がする。
「えー、ちょっと早く測っちゃってくださいよ。無理しないでくださいね」
後輩の後押しもあり、仕方なく諦めて体温計を総務に借りるとトイレの個室で脇の下に挟んだ。
最近の体温計は進化が進んでいるようで、待つことなくあっという間に熱があることを示してくれた。
「やっぱり駄目か…」
それからその日締め切りの仕事だけをなんとか提出して、あらゆる関係部署の担当者に電話やメールで連絡をした。
出来る限り迷惑がかからないようにしているうちに具合はどんどん悪くなり、ようやく十二時半に退社した。
帰り道が一番地獄であった。
暑い。熱があるのに気温が高くて、顔から汗が吹き出るが、身体の芯には寒気がいるような気がする。
這々の体でアパートに帰り着き、こんなことならタクシーで帰ればよかった。残った仕事など誰かに任せて早急に帰ればよかった。そんなことを考えながらクーラーをつけ、服を脱いで布団に倒れこんだ。
目が覚めると、部屋の中が薄暗くなっていた。
時計を見ると夜七時を少し過ぎている。
汗をかいて喉が渇いた。
朝から何も食べていないことも思い出したが、おかゆや雑炊を作る手間を頭の中で考えると、面倒で布団から出られない。
「あ」
そこで近所に住む母親が作り過ぎたからと持ってきていたレーズン入りの蒸しパンが台所で山となってラップをかけられているのを思い出した。
「蒸しパン…病人に蒸しパンはいいのか…」
食事をそれで済ますことに対して、頭の中で葛藤した。
しかしそのまま食べられる手軽さ、消化のよさそうな粉物、咀嚼に力を使わない柔らかさ、そして何より誰かの手作りであるということが今の弱った自分を元気にしてくれるような気がした。
「食べるか。もういいや。食べないよりはマシだろう」
重い体でのっそりと起き上がり、そのまま台所へ向かう。
冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、蒸しパンの山が乗った皿をダイニングテーブルに運んだ。
ラップをはずすと、銀色のカップにわく雲のような蒸しパンを手にする。手作りのため形はバラバラだが、どれもよく膨らんでいる。
子供の頃はこの蒸しパンが好きで、母によくねだって作ってもらっていた。
レーズンじゃなくてくるみが入っていた時は泣いて怒ったこともあった。
どうしてもこの白地にレーズンが入っているものが良かったのだ。
「弱ってるなー俺」
思い出を思い出す時は、大抵弱っている時だ。
銀カップをはがして甘い蒸しパンに噛り付いた。
久しぶりの蒸しパンは体調不良の空腹にも優しくて、無言でぼんやりと食べ進めた。
一つ食べ終わった時に携帯電話が鳴って、メッセージが届いたことを知らせた。
ベタついていない方の指で画面をタップすると、新着の他にも会社の人間から来ていたいくつかのメッセージが表示された。
「すごい、なんか、うん」
ゆっくり休んでくださいね。ご無理なさらず。そんなメッセージばかりが並んでいて、無理して仕事をこなしがちな日々も誰かがどこかで見たり感じたりしてくれているのかもなと思ってたまらなくて天を仰いだ。
誰のための自己犠牲なのか。休むことへの罪悪感はどこから来るのか。そんなことに囚われていた心が少し軽くなった気がした。
「元気になろう。うん」
蒸しパンをもう一つ食べると、薬を飲んでまた布団に戻った。
罪悪感は治療の敵だ。
もらった言葉と腹を満たした蒸しパンの力に守られて、そのままゆっくりと眠りについた。
明日の朝には回復しているだろう。
その日は柔らかな雲の上で大の字で昼寝をする夢を見た。