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9.18 カイワレ大根の日
まさか、そんなに怒られるとは思わなかった。良一は、地蔵のごとく黙りこくって壁際を向いている自分の彼女の肩甲骨のあたりを、冷や汗を垂らしながら困った顔で見ていた。
「小町ちゃん、機嫌直してよ」
喧嘩の原因は、食卓にのった炒め物である。豚レバーの中華炒めは冷め切って皿の端で油が白く固まり始めている。ニラともやしの間に顔を出すカイワレ大根も、もう色が変わってくったりと力を失っていた。
「ごめんね、まさかそんなに大事にしていたなんて思わなくて」
もぞり、と小町ちゃんの背中が動いた。話は聞いてくれているようだ。
「でも、また新しいの買ってくるから、一緒に育てよう?」
手負いの獣を相手にするように、じりじりと膝立ちでしのび寄る。背後から抱きしめようと思ったら、肘打ちをくらったうえ、追い打ちにティッシュの箱が額に飛んできた。
「良ちゃんのバカ!なんで勝手に使っちゃうのよ。毎日大事に育ててきてようやくもとの背丈を越えたところだったのに」
小町ちゃんは、顔を赤鬼のようにして怒った。まさか、カイワレ大根を自分のペットみたいに育てているとは思わなかった。彼女はスマートフォンで写真を撮って日々の成長を記録までしていたらしい。
「だからこそ、食べ頃だと思ったんだよ」
ずれた黒縁の眼鏡を直しながら、慌てて悪気がなかったことを強調する。だが、今はそんな言葉は求められていないらしい。
「例えば」
「ん?」
出た。小町ちゃんのたとえ話。喧嘩のたびに出てくるけど、例が突拍子も無いことが多くて辛い。それでも口ごたえをしようものなら、結局黙り込まれるのが関の山だ。ここは大人しく聞くしかない。
「私がシングルマザーだとして、良ちゃんと付き合っているとするよね。良ちゃんは、ある日美味しそうな肉の角煮を作ってくれるの」
「うん」
「いただきます、って言って箸を伸ばして気づく。私の子供は?私の子供はどこ?って」
「え?う、うん」
ダメだ。突っ込んだら負けだ。
「私の子供は、良ちゃんに美味しく調理されちゃったの。そして、良ちゃんは言う。新しい子供を作ろうよって」
小町ちゃんは、感情が入りすぎてもう演劇部くらい心のこもった状態だった。ツッコミどころはあまりに沢山あったが、僕は一生懸命絞ってひとつだけに留めることにした。
「あのね、俺、そんなに酷いことしたかなぁ」
頭を書きながら言うと、もうそのあとは惨憺たる有様だった。
良一は、避難がてら近所の八百屋へと走り、元気なカイワレ大根を3パックとコンビニでハーゲンダッツを味違いで五つ買って帰った。
黙ってハーゲンダッツのストロベリー味を食べると、赤い目をした小町ちゃんの機嫌は見る間に直ってしまったので、本当に女の子って分からないなぁと良一は脱力したのだった。かわいいかわいい僕の彼女。この子と結婚したらきっと僕は最高に幸せだけど最高に苦労するんだろうな、と空のハーゲンダッツのカップを見ながらしみじみと思った。