8.2 パンツの日
喫茶店で珈琲を飲んでいると、目の前の男が汗を拭いているのが女物のパンツであることに気づいて、名取は口に含んだ珈琲を思いきり噴き出してしまった。
「ちょっ、名取くん、何してんの?あーもうっ、びちゃびちゃだよ!」
男は焦ったようにそれまで汗を拭いていたパンツで白いワイシャツに付いた黒い染みを拭いた。
「いや、アンタこそ何してんですか!それ、あれでしょ?いや、もしかして…」
丁度良いタイミングで男の後ろにあった古いテレビに、最近頻出しているという下着ドロボウのニュースが流れたので名取は冷や汗をかいた。
指摘された男は、名取の視線を追って自分の手元を見ると、おやと片眉を上げた。
「ああ、ハンカチと間違えて持ってきてしまったんだな。ほら、四つ折りのハンカチを丸めて収納したのに似てるだろう?女性もののパンツの収納は」
その言い訳は、とてつもなく嘘くさい。
そもそも男は離婚歴があり現在は独身のはずだ。
男の名前は栗麻呂という。
名前ではなく苗字である。下の名前は忘れてしまった。
栗とマロンで覚えやすいでしょうと男は言ったが、名取はアンタとしか呼ぶ気がないのでその覚えやすさにはあまり意味がなかった。
「そもそもアンタ、何で毎日来るんですか」
「名取センセの新作がきちんと世に出るか心配してるんじゃないか。ほらほら、僕のことは気にせずに仕事に集中してくれたまえ」
「いや、アンタ編集者でも何でも無いだろうが」
名取は絵本作家だったが、過去に一作当たった印税と、今は小さなコラムなどの仕事で細々食いつないでいる生活だ。
一応仕事場代わりの喫茶店に毎日アイディア出しに通ってはいるが、とんと使えそうなアイディアは降ってきていない。
「僕の娘がね、名取センセの絵本が好きで好きで、僕は同じやつを三冊も買わされたんだ。新作が出来たら娘に渡すんだよ。ささ、お喋りはこの辺にして、早く書いちゃってくださいな」
栗麻呂は胸ポケットにパンツを押し込むと、汗をかいたレモンスカッシュのグラスに手を伸ばした。
女物のパンツをポケットチーフのように使う様に驚きを隠せなかったが、名取はこれ以上絡まれるのも面倒なので黙っておくことにする。
「あっ!僕ったら!ハンカチと間違えたおパンツを、いつもの癖でポケットチーフみたいにしちゃった!可笑しいねぇ!ね!」
目の前の男を無視してアイディアを練ろうとペンを取った名取だったが、栗麻呂の執拗な笑いの強要に全てのやる気を削がれてしまった。
「あ、もうこんな時間だ。僕仕事の打ち合わせがあるので帰るよ。では、名取センセ」
栗麻呂はその場で立ち上がると、拳を二つ胸の前でギュッと握ると「頑張ってくださいね!」と言って去って行った。
「金、多いんだけど…」
栗麻呂の飲んでいたレモンスカッシュのコースターの下に、律儀に千円札が挟まっている。
何の仕事をしているのかしらないが、どうやら金はあるらしい。
拍子抜けして、ぼんやりしながら何も考えずに手を動かした。
アイツはきっと、俺の新作を持って娘に会いに行きたいんだろうな。
普段は会わせてもらえないのだろうか。
何歳くらいだろう。
アイツに似て趣味が変わってるのかな。なにせ俺の絵本を三冊も欲しがってくれるくらいだから。
「いい子だなあ…あ」
レモンスカッシュの空きグラスを下げにきたウエイトレスが、そそくさと目をそらして名取の席を離れた。
名取は無意識のうちにパンツの絵を大量にメモ帖に描いていた。
急いでページを繰り、まっさらな白にちょうちょの絵を描いて心を落ち着かせた。
「ちょうちょの、パンツって、どうかな」
それからは早かった。
子供が自分でパンツを履きたくなるような、パンツに愛着がわくような話がいい。
いつも自分の一番近くで守ってくれる存在。
ちょうちょがとまって、ちょうちょ柄になったパンツと女の子の冒険物語。
名取は夢中で絵コンテを切った。描いているうちに、ワクワクしたり、ハラハラしたりして、久しぶりに好きなものを描いている手ごたえがあった。
「あー、出来たー」
絵コンテがまとまった頃、もう外はとっぷりと日が暮れて、コーヒー色に染まった空にチラチラと粉砂糖がまぶされていた。
長居をしてしまったので、夕飯代わりにナポリタンスパゲティを頼み、食べている間も絵コンテを直した。
だれかが喜んでくれるといいな。
そんな思いで作ったお話は、温かくていい話になった気がする。
ずっと抱えていた売れるものを作らなければいけないというこだわりはパンツの前に消えてしまった。
ナポリタンを食べ終えると名取はそっとメモ帳を閉じて、栗麻呂と娘が名取の絵本を楽しそうに読む様を想像して一人食後の珈琲に口をつけたのだった。