8.4 ビヤホールの日
それは、八月の終わりの週末のことだった。
妻が突然ビヤホールに行きたいと言い出したのだ。
「いや、君。君下戸だろう?ビヤホールなんて行ったってうるさいばかりで楽しめないんじゃないのかい」
食後のお茶を淹れていた妻は、ころんと丸く小さな湯のみに注いだ緑茶を私の手元に滑らせた。
「いいんです。私はビヤホールというもの自体を経験してみたいだけなんですから。ほら、私最近同級生の美千代さんに誘われて俳句教室に通っているでしょう」
変なところで話が途切れたので、続きを待つ間に緑茶を一口飲んだ。
まだ熱湯に近い茶が上あごを火傷させたので、私はすぐに湯のみをちゃぶ台に戻した。
妻は何度言っても熱湯で緑茶を淹れる癖が直らない。
高い温度で淹れたせいで茶色く変色しているお茶を、妻はかまわずに飲んでいる。
「で、俳句教室とビヤホールに何の関係があるっていうんだい」
妻は茶菓子に伸ばしていた手を自分の頬に当てると、悩ましげに小さなため息を吐く。
「私、大人になりたいのよ」
私はぽかんと口を開けて、たっぷり間を取ってから、は?と聞き返した。
「馬鹿言うな。確かに君は幼さの残るところがあるし、若くも見られると思うが、四十を超えた立派なおばさんじゃないか。今更何を大人になんて」
焦って飲んだ緑茶はまだ熱く、皮のむけた上あごを更に痛める結果となった。
頬を赤くして湯のみを睨みつける私を、今度は妻の方が不思議そうな顔をして見ている。
「何をそんなに動揺しているの?なんていうか、感性の話をしているのよ。いつまでもお遊戯みたいな、少女みたいなんじゃなくて、大人っぽい俳句も詠んでみたいの。ビヤホールのポスターを見て、行きたいって思ってたところだったから丁度いいかと思って。あなた、お酒好きでしょう?」
その理由を聞いて私は、少し安心したような、もしや妻は俳句教室で遠回しに嫌味を言われているのではないだろうなと心配したりした。
「そういうことなら、まあ、いいよ。ちょうど明日は土曜日だから、明日の夜に行くことにしよう」
二人で夜に出かけるなんて、久しく無いことだった。
私は仕事でもないのに下ろしたてのジャケットを着て、朝のうちに磨いておいた革靴を履いた。
妻は、私が買ったもののそのまま大事に仕舞い過ぎていた水色のワンピースを出してきて、ご機嫌だった。
「あまりに大事に仕舞いすぎて、樟脳臭くなってるんじゃないかい」
「やだ。そんなこと言われたら気になっちゃうじゃない」
私はおめかしをした二人が横に並んで歩いているのが恥ずかしくて、つい軽口を叩いてしまっただけだった。
でもそこからビヤホールに着くまでの間、たびたび肩口の匂いを嗅いでいる妻の姿を見て、とても悪いことをしてしまったような罪悪感に襲われた。
オレンジ色の明かりが漏れる窓の横にある重い木製の扉を開けてビヤホールに入ると、妻の眼に煌びやかな照明が映り込んだ。
「まあ、すうごい。シャンデリアまで、あるのね」
土曜日の夜ということもあり、ビヤホールは賑わいを見せていた。
入り口のあたりでどうしたら良いかと立っていると、黒服のボーイが素早く脇に付き、奥の方の比較的静かな席に案内してくれた。
初めて見る年季の入ったメニュー表を真剣に読み込んだ妻が、ポテトサラダとアジのフライ、鶏のから揚げを選んだので、私が枝豆と二人分のビールを追加して頼んだ。
「私、最初はとても緊張してたんだけど、程よくざわついていて、敷居が高くなくて、でもなんだか非日常な感じがするビヤホールって、楽しいわね」
大人になりにきたはずの妻は、グラスの半分のビールで頬を染めて少女のように無邪気に笑っている。
アルコールに潤んだ瞳にシャンデリアの光が反射してるのを見つけて、私はまるで初デートのようにしばらく俯いて黙り込んでしまった。
「ど、どうだい。いい句が、書けそうかい」
枝豆をもそもそと口に運びながら尋ねると、口の端にケチャップをつけた妻が深く頷いた。
「そいつは、良かった」
「そうね。あなたのそんな顔も久しぶりに見られたし、今日は何だかいい気分だわ」
驚いて顔を上げると、そこにいるのは先程までの無邪気な少女顔ではなく、小僧をからかうような大人の女性の妻だったので、これだから私はこの人といるのをやめられないんだよなあと心の中で万歳をした。
夜が更けるにつれ、ビヤホールは活気付き、その楽しげな声たちは夜空に届くほどだった。
私と妻は、楽しいお酒を飲みすぎて、帰り道についうっかり路上でハグなどしてしまったのだった。